2018/09/11 王子散歩 04 七社神社/西ヶ原一里塚/西ヶ原一里塚の碑/滝野川警察署/ゲーテの小径/東京ゲーテ記念館/熊野坂

この日記のエリアはかなり前に来たことがあるエリア。
mixiにまだ日記が残っているかなあ・・・。



◆七社神社




七社神社の祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美(いざなみのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・伊斯許理度賣命(いしこりどめのみこと)・市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)・帯中日子命(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)・品陀別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)です。由来については、寛政五年(1793)の火災により、社殿古記録一切が焼失したため、よくわかってません。『新編武蔵風土記稿』には「村ノ鎮守トス・・・」と記され、また、『江戸名所図会』には、無量寺の高台に描かれ、再建後も別当寺であった無量寺の境内に祭られていたことがわかります。明治はじめの神仏分離に際して現在地である一本杉神明宮社地に移され、西ヶ原村の総鎮守として祭祀されるに至りました。
 末社には天祖神社(一本杉神明宮)・稲荷神社・熊野神社・菅原神社・三峰神社・疱瘡社があります。一本杉神明宮は、もともとこの地にあった寺社ですが、七社神社の移転により、末社となったものです。現在、切り株が残っている杉の切り株は、その神木です。
 旧社務所は、村の青年会の発起で、渋沢栄一古河市兵衛を筆頭とする書士の寄付により、大正九年(1920)に建てられたもので、公会堂を兼ねたものでした。
 この境内から隣地にかけての一郭は、七社神社裏貝塚として知られた遺跡で、縄文式土器弥生式土器・土師器などが発見されています。



稲荷神社



疱瘡社



一本杉神明宮




 現在の七社神社の社地は、かつては神明宮の社地でした。神明宮は、天照大神を祭神とし、神木が樹齢千年以上といわれる杉であったことから、一本杉神明宮と呼ばれていました。明治初年に七社神社がこの地に移転してきたことにより、神明宮は七社神社の摂社となり、天祖神社と呼ばれるようになりました。杉の古木が枯れたため、明治四十四年(1911)に地上3、4メートルのところを残して伐採されましたが、現在もその切株は残っています。
 七社神社は、江戸時代には七所明神社といい、西ヶ原村の鎮守で、別当である無量寺の境内にありました。祭神は、紀伊国高野山四社明神を移し祀り、これに天照大神・春日・八幡の三神を合祀したものといいます。詳しい由来は、寛政五年(1793)の火災によって、社殿をはじめ古文書・古記録等を焼失したためよくわかりません。神仏分離によって、明治初年に現在地である神明宮社地に移されました。現在の祭神は伊邪那岐命伊邪那美命天児屋根命、伊斯許理度費命、市寸島比費命、品陀別命、帯中日子命の七神です。境内には摂社となった天祖神社の他に、末社として稲荷神杜・菅原神社・三峯神社熊野神社・疱瘡社があります。
 



稲荷神社




三峯神社/菅原神社

手前に「歯固め石納所」がある。
お食い初めの儀式で使うものとのこと。



孔子孟子



鳥居


鳥居





◆西ヶ原一里塚



二本榎保存之碑

一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ケ原の一里塚と榎が東京市電の軌道敷設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長滝野川町長、地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は。歴史学者で名文家としても知られています。この時保存された榎は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。


二本榎保存之碑
公爵徳川家達


府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり
之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく乞梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧片の厄を免れず今存するもの甚少し二本榎は実に其存するものゝ一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎東京市長となるに及び将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵渋沢栄一君最も力を之に尽し篤志者の義損を得て周辺の地を購ひ人家を撤して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし幕府治平を講ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に渋沢男爵両市長町長及び諸有志者の力に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん
大正五年六月 文学博士 三上参次
阪 正臣書
廣群鶴刻


(裏面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり虎の門は慶長年間に始めて築造せられ其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり
(一部原文を現代かな漢字に直しています)



西ヶ原一里塚

 慶長九年(1604)二月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。
西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から数えると日光御成道の2番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。
 旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存之碑」と題される大正5年(1916)6月の記念碑があります。西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。碑は、こうした経緯と、渋沢栄一東京市長滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえます。




◆西ヶ原一里塚の碑

こちら近づくことができない(w




滝野川警察署





ゲーテの小径




こんにちは、兄弟たち
あらゆる地域、学派、流派の人びとよ!
わたしはワイマール人でありながら、
世界市民
尊敬する皆さんの輪に
英知と美徳をとおして参加してきたが、
いっそよい方法を知っている人があるなら、
ほかのところで、その地慧(ちえ)を求めるがよい。





ゲーテ記念館前ポケットパーク

 このポケットパークは「ふるさと北区のまちづくり」の一環として、ドイツの文豪ゲーテをテーマに整備しました。
 ゲーテをより身近に感じていただくとともに、休息の場として活用していただければ幸いです。



ゲーテ年譜

 ゲーテといえば、「若きウェルテルの悩み」や「ファウスト」に代表されるようにドイツ文学者として有名ですが、その活躍は文学のみにとどまらず多岐にわたっています。それは政治家として、色彩論や解剖学の研究者として、さらに鉱物学や建築学の研究者としてのゲーテです。
 このような多彩な人物であったゲーテの活動の概要を「ゲーテ年譜」としてまとめたものです。


ファウスト

 ゲーテファウストを八十二年間の生涯のうち、二十三歳から八十二歳までの六十年をかけて完成させました。ゲーテの代表作と言えるファウストから抜粋した場面をここに紹介します。
(訳 大山 定一)

森と洞  (第一部より)

ファウスト(ひとり)崇高な大地の霊よ、
 おまえはおれが求めるものを惜しみなく授けてくれた。
 おまえが燃える焔のなかに、
 おまえの顔をあらわしてみせたのも、
 けっして無駄ではなかった。
 うつくしい自然をおれの王国としてあたえ、
 自然を感じ自然を享受する力を
 おれに附与したのは、おまえだ。
 そして、ただ冷たく自然にふれるだけでなく、
 親しい友だちの心の中を見るように、
 自然の隠れたふところへ、
 おれがはいることをゆるしてくれた。
 お前は生きとし生けるものの列をつれて、
 おれのそばを通りすぎた。
 鈴かな茂みや水や虚空のなかに棲む
 おれの兄弟たちともひきあわせてくれた。
 のみならず、あらしが森にわめき、
 かずかずの樅(もみ)の大木をたたき落して
 すさまじい響きが山に丘にこだまするとき、
 おまえはおれを安全な洞窟のなかへみちびき、
 しずかにおれ自身を省察させた。
 おれの胸のなかには、
 神秘な深い奇蹟がとびらをひらく、
 おれの眼のまえを
 清らかに澄んだ月光がやさしく照らす。
 そのとき、絶壁の岩や露にぬれた灌木のあいだから、
 伝説時代のしろがねのもろもろの姿が
 おぼろげに立ちあらわれて、
 おれの瞑想のきびしいなやみを慰めてくれる。



省察(せいさつ)」を調べてみた。
自分自身をかえりみて、そのよしあしを考えること。
1641年に公刊されたフランスの哲学者ルネ・デカルトの著書。
とあった。



◆東京ゲーテ記念館

前に一度中に入ったことがある。
もう10年くらい前だったかな・・・・・。




◆熊野坂



 この坂は,谷田川通りから 西ヶ原3-30の不動院墓地までの坂で,名称は昔,不動院境内にあった 熊野神社に由来します。江戸時代の地図によれば,当時の不動院の境内はこの坂に面していて,その北の隅に 宝永(1704-11)年間にまつられたという 熊野神社が描かれています。つきあたりの道は 鎌倉道といわれ,本郷台地から推定 豊島郡衙跡に至るので鎌倉時代以前の道とも考えられます。



続く。