2018/09/11 王子散歩 05 不動院/西ヶ原貝塚/西ヶ原貝塚広場/東京高等蚕糸学校発祥之地/東京病院/滝野川公園/御殿前遺跡

この日記のエリアは上中里駅南側の滝野川公園付近。
公園で座って休憩する。
やはり歳を感じるなぁ・・・・。



不動院





◆西ヶ原貝塚




 西ヶ原貝塚は、東京都を代表する貝塚の一つで、古く明治一一年(1878)頃にはすでにその存在が知られ、東京近郊だったこともあり、坪井正五郎博士など多くの著名な研究者により調査されて来ました。
 貝塚は、武蔵野台地東縁の海抜23m前後の通称上野台に立地します。東西約150m、南北約180mの馬蹄形を呈する大規模な貝塚です。西ヶ原貝塚からは、縄文時代早期から晩期に至る時期の遺物が出土していますが、貝塚の形成は発掘調査の結果から、中期後半から晩期初頭にかけての時期とみられます。中期後半から後期後半にかけての時期に属する住居跡や墓標なども発見されています。
 貝塚から検出された階の構成種は、調査地点によりやや異なるものの、貝塚の形成が始まった中期後半はヤマトシジミを主体とし、その後、小型ハマグリやカキなどが混じる構成になりまる¥す。好機前半になると大型ハマグリやカキを主体とし、それにヤマトシジミが加わりますが、晩期初頭には再びヤマトシジミが主体となります。




◆西ヶ原貝塚広場




貝塚広場 −西ヶ原貝塚ー>
 西ヶ原貝塚は、明治11年1878年)頃に発見された著名な縄文時代貝塚です。
 貝塚広場は、この場所で貝塚や住居跡などが発掘されたことをお示しするため、それらが保存されている場所の上に造られています。

<遺跡の内容>
■場所
 西ヶ原貝塚は、北区西ヶ原一丁目および三丁目にあります。地形的には武蔵野台地の北東部の橋にある台地(上野台)の上にあります。

貝塚の時期と広がり
 今までの調査結果によると、縄文時代中期後半から晩期初期にかけて断続的に形成された貝層が、東西140m、南北180mの規模で馬の蹄のような形に分布していることが判明しています。

<調査で発見されたもの>
 今回の調査地区では、縄文時代前期前半(今から約6500〜6000年前)の住居2軒、後期(今から約4400〜3200年前)の住居34軒以上、墓20基、貯蔵穴(ちょぞうけつ)6基のほか、多くの柱の穴などが発見されています。
 貝層は、小規模のものかが数多く確認されており、弧を描くように点在していました。これらは、使われなくなった竪穴住居のくぼ地から見つかっているものが多く、層の厚いところでは40〜50cm程あります。貝はハマグリとヤマトシジミが中心となっています。
 遺物については、土器や石器(斧など)のほか、土偶、土製の耳飾り、鹿角(ろっかく)製の銛(もり)・貝輪(かいわ)・貝刃(かいじん)・獣骨・魚骨などが出土しています。
 なお、発見された貝層の一部を標本として建物内に展示しています。



◆東京高等蚕糸学校発祥之地




明治19年10月
  麹町内山下町より移設
  農商務省蚕病試験場
明治29年3月 改称
  農商務省蚕病業講習所
大正3年3月 文部省移管
  東京高等蚕糸学校
昭和15年4月移転
  現東京都小金井市
昭和19年4月 改称
  東京繊維専門学校
昭和24年5月 昇格
  東京農工大学




東京病院




滝野川公園





◆御殿前遺跡




御殿前遺跡は、先土器時代から近世にわたる複合する遺跡です。なかでも奈良・平安時代に造られた建物の跡は、武蔵国豊島郡の郡衙(ぐんか)(地方役所)と推定されています。古代の武蔵国には21の都が置かれ、現在の東京都は豊島郡・荏原郡・多麻(たま)郡にあたります。この豊島郡衙の中心部分がこの一帯です。




続く。