2018/09/13 田端散歩 04 萬栄寺/江戸坂/童橋公園/室生犀星の「庭石」と「苔」/田端八幡神社

まだまだ田端文士村のエリアを進む。
田端文士村記念館は前に一度行っているので今回は行かなかった。


2016/08/04
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20160804/1470618626



◆萬栄寺



◆江戸坂




 田端の台地から下谷浅草方面へ出る坂道で、坂名もそれに由来するもののようです。
 この坂の近くに、詩人の室生犀星俳人瀧井孝作、画家の池田輝方、池田蕉園夫妻、画家の岩田専太郎、詩人の福士幸次郎が住んでいました。坂上の左手に露月亭という茶屋があり、陶芸家である板谷波山が35歳の頃、そこで、飛鳥山焼と銘を入れた徳利と猪口を売ったことがあったということです。




◆童橋公園




室生犀星の「庭石」と「苔」(童橋公園内)





 この『庭石』と『苔』は、ここから北西へ約200m先にある滝野川第一小学校の近くに住んでいた室生犀星(旧田端523番地に居住)の庭にあったものです。犀星の庭造りは、有名で、故郷金沢や軽井沢にも庭を造りました。また、「庭をつくる人」など、庭に関する随筆や評論も数多く発表しています。詩集「高麗の花」に「石一つ」と題して、


石を眺め悲しいといふものあらんや。
姿をかしく
されど皺深く蒼みて
雨にぬれるとき悲しといふものあらんや。


ーー中略ーー


こころあらば
誰かわが家に来りて
水なと打ちそそぎたまえ。
語ることなき石あをみて
しだいにおのが好む心をば得ん。


……と庭の石を詩っています。


 犀星は、大正五年から田端に10年近く住み、三児を得ましたが、長男豹太郎を幼くして亡くしました。その深い悲しみを「童子の庭]に
…………亡児と[庭」との関係の深さは「庭」へ抱いて立った亡児の俤は何時の間にか竹の中や枇杷の下かげ、或は離亭(はなれ)の竹縁のあたりにも絶えず目に映り、自分を呼び、自分に笑いかけ、自分に邪気なく話しかけ、最後に自分の心を掻きむしる悲哀を与えるものだった。


……と書いています。


当時、犀星の隣家には、芥川龍之介の恩師である広瀬雄(府立第三中学校校長)が住んでいました。昭和三年、犀星はこの悲しい想いから逃れるように、田端を去り大森馬込ヘ引越しますが、引越しを決意した犀屋は、広瀬に庭石の引き取りをもちかけ、庭を造るなら「ついでに苔も上げましょう。」ということになったようです。ちなみに、犀星は、この「苔」を叡山苔と呼んでいました。
 田端は、大正から昭和初期にかけて日本のモンマルトルともいわれ、幾多の文士・芸術家が住んでいた街でしたが、昭和二十年惜しくも戦災により、すべて灰塵に帰し、いまは、その当時を偲ぶよすがとてありません。しかし、この「庭石」と「苔」は犀星の深い想いを秘めて奇跡的に広瀬宅に生き残りました。
 この「庭石」と「苔」は、広瀬氏のご長男、淳雄氏のご好意により本公園設置を記念して寄贈されたものです。



◆田端八幡神社





田端八幡神社

 この八幡神社は、田端村の鎮守として崇拝された神社で、品陀和気命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)を祭神としています。神社の伝承によれば、文治五年(1189)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。別当寺は東覚寺でした。
現在東覚寺の不動堂の前にたっている一対の仁王像(赤紙仁王)は、明治元年(1867)の神仏分離令の発令によって現在地へ移されるまでは、この神社の参道入口に立っていました。江戸時代には門が閉ざされていて、参詣者が本殿前まで進んで参拝することはできなかったらしく、仁王像のところから参拝するのが通例だったようです。
 参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。これは昭和初期の改修工事によって暗渠(あんきょ)となった谷田川(やたがわ)に架かっていたもので、記念保存のためにここへ移されました。
 社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成四年(1992)に氏子たちの協力のもとで再建され、翌年五月に遷座祭が行われて現在の形になりました。境内には、稲荷社のほかに田端冨士三峯講が奉祀する冨士浅間社と三峰社があり、冨士浅間社では毎年二月二十日に「冨士講の初拝み」として祭事が行われています。



富士浅間社・三峰社



境内社



稲荷社



鳥居



参道・鳥居




続く。