2018/09/13 田端散歩 05 東覚寺/田端庚申塔/輿楽寺/与楽寺坂/上の坂/芥川龍之介旧居跡/不動坂

この日記のエリアは田端駅すぐ南側エリア。
また高台になっていく。



◆東覚寺





赤札仁王尊





赤紙仁王(石造金剛力士立像)

 参詣客が赤色の紙を貼るため‘赤紙仁王’の名でよばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、吽形像の背面にある銘文から、寛永18年(1641)8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって造立されたことが分かります。一説によれば、当時は江戸市中で疫病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。
 参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じられてきたからで、具合の悪い部位と同じ個所に赤紙を貼るのが慣わしです。また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健脚や健康をかなえる尊格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。
 なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人々のお参りをうけてきました。また、平成20年10月には、道路拡張工事のため従来の位置から7メートル後方に移動し、平成21年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世の趨勢(すうせい)を見つめてゆくことになりました。










◆田端庚申塔



工事中で見過ごしそうになった。




◆輿楽寺(与楽寺)






賊除地蔵の伝承地

 与楽寺は真言宗の寺院で、江戸時代には20石の朱印地を領有していました。この境内には、四面に仏を浮彫にした南北朝時代の石の仏塔があります。また、阿弥陀堂には行基作と伝わる阿弥陀如来が安置されています。当時、これは女人成仏の本尊として広く信仰を集めていたことから、ここは江戸の六阿弥陀詣の第4番札所として、多くの参詣者を得ていました。
 さて、本尊は弘法大師作と伝わる地蔵菩薩で、これは秘仏とされています。この地蔵菩薩は、次のように伝承されています。
 ある夜、盗賊が与楽寺に押し入ろうとしました。すると、どこからともなく多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂にこれを追い返しました。翌朝見ると、本尊の地蔵菩薩の足に泥がついています。きっと地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになり、これより賊除地蔵と称されるようになりました。
 仏教では、釈迦が入滅してから56億7000万年後に弥勒が現れるまでの間は、人々を救済する仏が存在しない時代とされています。この時代に、地蔵菩薩は、自らの悟りを求め、同時に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道の迷界に苦しむ人々を救うと信じられてきました。そして江戸時代になると、人々の全ての願望をかなえる仏として信仰されるようになり、泥足地蔵・子育地蔵・田植地蔵・延命地蔵・棘抜地蔵というように各種の地蔵伝説が生み出されました。与楽寺の賊除地蔵も、これらの地蔵伝説の一つとして人々の救済願望に支えられて生み出されたものといえます。



阿弥陀堂




鐘楼




山門





◆与楽寺坂




 坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。『東京府村誌』に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ二十五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。
 芥川龍之介は書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と書いています。




◆上の坂




 坂名の由来は不詳です。この坂上の西側に、芥川龍之介邸がありました。芥川龍之介大正3年からこの地に住み、数々の作品を残しました。また、この坂の近くに、鋳金家の香取秀真、漆芸家の堆朱楊成、画家の岩田専太郎などが住んでしいました。
 芥川龍之介は、その住居を和歌に詠んでいます。
  わが庭は 枯山吹きの 青枝の
     むら立つなべに 時雨ふるなり





芥川龍之介旧居跡



 作家芥川龍之介(1892〜1927)は、大正三年から昭和二年までの約13年間、この地(当時の田端435番地)田端1-20に住んでいました。
 この間「羅生門」、「鼻」、「河童」、「歯車」等の小説や俳句を執筆し、日本文学史上に大きな足跡をのこしました。




◆不動坂



不動坂から見た田端駅。




 田端駅南口から西南へ登る坂です。坂名は、かつて田端駅南口付近に石造不動明王立像が安置され、不動の滝があったことによります。この不動明王像は、明治四十五年(1912)五月に始まった田端駅の拡張工事により現在地付近へ移され、さらに谷田川改修工事にともない、昭和十年(1935)十一月に現在地(田端3-14-1隣接地)へ移され、田端不動尊となっています。



続く。