2018/10/17 山形旅行2日目

2日目は最上川舟下りへ!


お舟

自分たちの乗った船は撮り忘れたので、途中すれ違った同型船を(w
舟下りっていうイメージとはちょっと違ってエンジンもついている舟だった。
この日はやっていなかったが、往復もやっているときもあるらしい。
写真の舟はお客さんおろして戻ってきた舟だった。




最上川






たまにはしぶきも飛ぶ。




今までの最高水位だそうだ。
父が生まれた年らしい(驚



下船

楽しかった♪



降りたところに展望台があったので行ってみた。





おしん」のロケ現場の写真が展示されてた。
あのドラマがあったから、今の賑わいがあるんだろうね。



この後はバスで舟下りする前の場所へ戻る。
どちらかというとバスからの眺めの方がいいかも・・・・
って言うのは内緒(w



戸沢藩船番所


お昼ご飯





舟が川を上るにほ風の力なんだそうだ。
相当強い風じゃないとだよね・・・・。



番所にあった説明板

 元和八年(1622)出羽之国の改易によって65ヶ所の藩主は散り散りになった。
その後幕府は出羽之国の大名の大巾な配置転換を行い新庄藩租戸澤右京亮政盛公は茨城県松岡から新庄に転封され六万八千二百石を給され新庄に入部した。
 時に元和九年(1623)七月であった。儒後十一代正実公迄築城から明治戊辰で廃城になる迄その間250年藩政時代に一回の国替えもなく戸沢氏のみに統治された。
その領域に戸澤藩口瑠番所として領内では同時に堀之内、柏沢、三ツ沢にも置かれ古口番所は川舟改所を兼ねて享保八年(1723)新庄藩が七ヶ篠の篠目を出し古口が駅場として整備された。
 古口が駅場として栄えたのは古口より下流は所謂最上峡と呼ばれる峡谷で古口より先に陸路がなくてすべて最上川舟運に頼らねばならない船着場としての要地と山紫水明の産物にも恵まれていた。
「新庄村鑑」によれば寛文四年(1664)の村高は698石余とあり、ここより下流の小部落はすべて古口村の枝郷となっていた。この僅かな石高の中に船番所の役人は二本差しの帯刀を許され200石(500俵)の資格を与えられていたと言ふからいかにこの船番所が川舟荷物の出入りを監視する重要な地点と役割であったかが窺える。
最上川は出羽之国交通運輸の動脈として、奈良平安時代から大正初め迄活用されてきた。その間往来の舟は風に帆を任せ、隊を組んで上下するさまはまことに牧歌的であった。
 陸羽西線新庄古口間は大正二年に開通し翌三年酒田迄開通したものである。
 舟改についての定は次の通りである。


船改定書

一、御料御城米之外下り船之分ハ積荷状へ引合相違無之候ハハ可相通但登船ハ改無ニ可相通事。
一、船中改之義前々之通 トマヲツキ上ゲ 排(荷物の排列)ヲ以テ手間取不申様ニ相改可申事。
一、積荷状之外紛荷物有之候ハハ其品計留置、早速相通可申事。

享保八卯年三月   新庄領主
古口村番人   二代 戸澤上總介正誠




此所最上川富士川、球磨側と共に古来日本三大急流の一つに数えられ近代交通化が進む以前には山形県の文化と産業の発展に果たした役割は今日想像することも出来ないほど大きかった。その流れは約二百十粁(キロメートル)にわたる。
戦国大名最上義光最上川の中、下流一円を支配に治めた時領域舟運の発展を計っているが、最上領の清水大蔵義親氏がもっていた清水河岸(現大蔵村)の中継権が問題となった。
江戸幕府の権力で交通政策も全国的に統一整備され(元和八年)出羽之国の改易となった年貢米をはじめ諸物資輸送の河川利用統一的秩序がつくられ舟改定書の出現となる。この区間庄内藩参勤交代の通路であり清川と清水間で「御召舟」が使われていた。また出羽三山参りに乗船する者が多く宝永六年(1709)五月から八月の間(この年は凶年であった)36000人余がこの船番所を通過したという記録がある。
三山導者船は大石田からも出ていたがここ古口「最上峡」を下り清川口で舟を降り「手向」から登る者がもっとも多かったとみられる。最上川舟運を利用するすべての物資がこの区間を通ったわけであるから上り下りする船教と旅人の多かったことは当然で四季折々の最上峡の賑わいが察せられる。
このような風情は何百年もの昔から旅する心を和ませ「文人墨客」の数多い詩歌となって残ったものであろう。
古きは「夫木和歌集」に源重之朝臣の歌として「もがみ川 滝の白糸 くる人の 心によらぬは あらじとぞおもふ」をのせている。
重之は清和天皇の皇子と伝えられ父の兄兼忠の養子となり晩年陸奥国の国守になった人である。
純を追って詩歌を記すと古今和歌集に「最上川 上がれば下る いな舟の いなにはあらず この月ばかり」
兼好の歌集に「もがみ川 はやくもまさる 雨雲の 上がれば下る 五月雨のころ」とあり悲運の武将九郎判官源義経一行が平泉に落ち延びる時の詩に「最上川 岩越す波に 月は冴えて よるおもしろき 白糸の滝」と詠われた。
元禄弐年六月参日俳聖松尾芭蕉は彼の有名な「五月雨を あつめて早し 最上川」を残し明治二十六年八月愛媛県松山の正岡子規芭蕉の足跡を追い「朝露や 舟頭歌う 最上川」「朝露や 四十八迄 下り舟」と詠った。
昭和天皇が皇太子殿下であらせられた当時摂政之宮として大正十四年十月十一日より十五日迄山形県内を御巡行翌十五年一月十八日宮中歌会始の砌勅題が「川・水・清」の勅題に前の年の行幸した時の最上川を想い浮かべられ東宮御歌として最上川を詠われた。


御製最上川

広き野を流れ行けども最上川
 海に入るまでにごらざりけり

山形県民歌に指定されて幾久しい。郷土が生んだあら々ぎ派の歌人斉藤茂吉はこよなく最上川を愛され数多い歌を詠われたその一部を記す

最上川流れの上に冬紅のたてると見れば春は来むかふ
ながらへてあれば涙のいづるまで最上の川の春ををしまむ


おのづからきたへむかはむ最上川大きくうねるわが眼下に最上川迄白波のたつまでにふぶくゆうべとなりにけるかも

自然も大きく変り人々の心もまた暮らしも変わり古き良き時代の俤げ(おもかげ)薄らぎつ々ある時、僅かに残っているものが私たち日本人の心をひきつけ過去への思慕により一層強く駆り立て々呉れるものであろう。





国保発祥の地

近くに碑があるとのことだった。
その碑には下のように刻まれているとのこと。
「昭和初期の農村は、相次ぐ凶作と農産物価格の極端な下落に悩まされ,人々の生活を極度に苦しめた暗い谷間の時代であった。
 当時の旧角川村は交通の便に恵まれず安住する医者もいなく、村人は病気になっても交通の不便さと家計の貧困で医者に看てもらうことができないとの現実に陥り、この窮地を脱するため国・県の指導の基に「村営診療所」を設立するため、村人を組合員とする保険組合の結成を計画、並々ならむ苦労努力の結果として 実現に成功した。
 保険組合の発足は昭和十一年四月であり、昭和十三年に国が初めて公布施行した「国民健康保険法」に先だつ輝かしい出来事であり、国保組合設立許可は全国第一号の栄誉を担ったことが、現在の「国保発祥の地」の由縁と言える。」





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三日目に続く。