道坂から不忍通りに入り、そこから登る坂3つをチェック。
狸坂からはそのまま西へ進む。
◆旧駒込道坂町
もと下駒込村に属していたが、明治24年に東動坂、西動坂上、西動坂下及び動坂、東京市に編入された。
町名は、町内を不忍通りに下る動坂の坂名からとり、名づけられた。
動坂の名称は、坂上に五色不動で有名な目赤地蔵があったので、不動坂と呼ばれたが、略して動坂となった。
江戸の不動信仰は、目青、目黄、目赤、目白、目黒の五色不動が有名であった。目赤不動は3代家光将軍の命で、南谷(なんこく)寺(現本駒込1丁目)に移された。
google mapに載っていたので来てみたが、説明板は見当たらなかった。
◆きつね坂
こちらもgoogle mapに載っていたので来てみたが、説明板などは見当たらなかった。
このあたりは、旧千駄木林町で、昔は千駄木山といって雑木林が多く坂上の一帯は、俗に「狸山」といわれていた。その狸山に上る坂なので、狸坂と名づけられた。
狸山の坂下は根津の谷で、昔は谷戸川(藍染川・現在暗渠)が流れて田んぼが開け、日暮里の台地と向かいあっている。この日暮里に諏方神社があり、8月27日の祭礼が終わっても、どこからともなく「里ばやし」が毎夜聞こえてきた。
土地の人たちは、これを千駄木山の“天狗ばやし”“馬鹿ばやし”といって、狸山にすむ狸のしわざといい伝えてきた。民話にちなむおもしろい坂名である。
◆旧駒込林町
千駄木山の内で、千駄木御林といった地である。
上野寛永寺創建の後、この林地を同寺の寺領とし徳川の薪材をとらせた。
延享3年(1746)開墾して畑とし、後その内に宅地を設けて御林跡と称えた。当時は下駒込町とした。
同24年、元下駒込村の内、団子坂、上笹原を併合した。
同44年には千駄木をとり駒込林町と改称した。町内には、高村光雲(彫刻家、1852〜1934)、高村光太郎(詩人・彫刻家、1883〜1956)父子や、宮本百合子(小説家、1899〜1951)が住んでいた。
◆区立駒込林町公園
◆高村光太郎旧居跡
高村光太郎〔明治16年(1883)〜昭和31年(1956)〕は彫刻家・詩人・歌人。彫刻家高村光雲の長男として台東区下谷に生まれ、10歳の時に、ここからすぐ近く(現・千駄木5-20-6)に移り、そこで育った。
東京美術学校(現・東京芸大)彫刻科を卒業して欧米に留学、ロダンに傾倒する。詩人としては、在学中「新詩社」に加わり、「明星」に寄稿し、「パンの会」にも参加した。
明治45年(1912)に住居を父の家からこの地に移し、自分で設計した木造・外観は黒塗りの風変りなアトリエが完成した。以後、ここで数多くの彫刻・詩などの作品が生まれた。大正3年(1914)長沼智恵子と結婚、昭和13年(1938)死別後は一人で暮らした。
昭和20年(1945)4月の戦災で住居は焼失し、岩手県花巻に疎開した。昭和27年中野区桃園(ももぞの)町の中西利雄のアトリエに仮寓。昭和31年(1956)4月、73歳で没。墓地は豊島区駒込の染井霊園。
染井霊園のお墓に行ったことがある。
智恵子さんとお父さんと眠っていらっしゃった。
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180905/1536236629
続く。