まだまだ西へ進む。
文京区のこの辺りは来ているはずだと思ってたんだけど、初めてみるところだった。
お寺ばっかりのエリアに突入。
◆千駄木公園
◆川端康成居住跡
google mapに載っていたので来てみたが、説明板など見当たらなかった。
身代わり地蔵尊
◆蓮光寺
鎮守社妻恋稲荷大明神
平野金華墓/最上徳内墓
平野金華墓
江戸時代中期の儒学者で、名は玄沖、字は子和、金華は号で通称源右衛門といった。元禄元年(1688)陸奥で生まれた。幼い時に孤児となり、親族の計らいで江戸に上り、荻生徂徠に就いて古文辞学を学んだ。生活に追われ書籍を買うことも出来ず、書架には「左伝」「礼記」「荘子」「通鑑」の抄書など数巻あるだけであったが、文章を縦横に駆使し、人びとを驚かせた。陸奥守山藩の藩儒となった後も、端午の節句に新服を着るよう主君の命令があり、薄給のため妻の着物を着て出仕し、即日俸米を加増されたという。
享保十七年(1732)七月二十三日45歳で死去した。著書に「金華雑譚」「酈陽遺編」「古学範」などがあり、藩主松平頼寛(黄龍)は、自ら「金華稿冊」を編纂した。謚を文荘先生という。
最上徳内墓
最上徳内(1754〜1836)は江戸末期の北方探検家で、出羽国村山郡楯岡村の農家の子として生れます。天明元年(1781)、江戸に出て、最上徳内と改めます。のちに本田利明の門に入り天文・測量・地理などを学びます。天明五年(1785)、利明に変わって徳内が蝦夷地巡検使に加わりました。蝦夷沿岸を巡視し、さらに千島・樺太などを調査します。
寛政一〇年(1898)には近藤重蔵とともに択捉島へ渡り、「大日本恵登呂府」の標柱を建てます。文政九年(1826)シーボルトが江戸に来たとき、その求めに応じて蝦夷地測量図を貸し、アイヌ語辞典の編纂を援助します。天保七年(1836)83歳で没します。
続く。