清水囃子は幕末に始まったそうです。その当時練習はなかなか大変だったようです。
農家が暇なのは冬ですから、どうしても練習は寒さが身にしみる時期に行われます。練習場所 は清水神社境内にありました公会堂でした。
練習には、丸太に荒縄をぐるぐる巻き付けて太鼓に見立てて数人が並んで、テレツク、テレツクと拍子に合わせて打つのですが、昔の公会堂は窓ガラスも割れ、すきまだらけの床からは冷たい風が吹き込んで、蒲(がま)を敷いただけでは、居ても立ってもいられないほどでした。
毎日寒げいこが続いて、清水神社の森に笛や太鼓の音が響きました。
戦後の昭和二十八年に、しばらく途絶えていたお囃子が始められ、現在も氏子の皆様のご協力により清水囃子として引き継がれ祭礼や市の催しなどで演じられています。また清水囃子は市技芸の指定を受けています。
◆清水観音堂
狭山三十三観音霊場 十五番札所 清水観音堂
狭山三十三観音霊場は狭山丘陵付近に点在し、一説には天明八(1788)年に創建されたといわれている。清水観音堂は、十五番目の札所である。
観音巡りは、人々の心の支え、安らぎを求めるためのもので、明治の中頃まで盛んであった。
本尊は「正観世音菩薩」で、高さ一尺五寸(約45センチメートル)の立像が安置されている。
清水観音堂詠歌(「武蔵野狭山観世音順「ネ豊」記」より)
清く映れる水の面
ふかきちらかひを くみてしるらむ
※「ネ豊」の部分は漢字が出てこなかった。レイと読むとのこと。
この供養塔は方柱形石碑で、天保四(1833)年、前川に石橋を架けた際、建立されたものである。
前川に架けられた清水本村橋の安全や維持、さらには現世と来世の安らかであることを願う、当時の民間信仰の一端を示すものとして貴重である。
建立以来、清水本村橋の南のたもとにあったが、平成十六(2004)年一月、人道橋の設置工事に伴い、現在地へ移された。
この石橋供養塔は、文化十一(1814)年、清水村の原七郎左衛門母妙智尼が建立したものである。砂の川(空堀川)に架けられた砂の橋の安全や維持、さらには現世と来世の安らかであることを願う、当時の民間信仰の一端を示すものとして貴重である。
大正十五(1926)年、老朽化した砂の橋を架け替える際、清水観音堂敷地内に移設された。
この池のあたりは、葦(あし)の繁茂する湿地帯で、そのほとりの道は、大和村から宅部および埼玉県に通じ、近郷の人びとの交易に重要な道でした。
村山貯水池が完成間近な1925年(大正十四年)八月、大和村狭山に住む”たっちゃん”(当時10歳)という泳ぎの上手な子供が、この池で泳いでいておぼれてしまいました。工事をしていた人の中に、海軍兵経験の人も何人かいて助けに入りましたが、そのうちの二人も池にのまれてしまったと語りつがれています。
それ以来、この池を「たっちゃん池」と呼ぶようになりました。
◆西武線
帰りは西武線で懐かしの国分寺へ!
すっかり変わってしまった国分寺を少し散歩して帰った。
細君ととても楽しい一日を過ごせて幸せだった♪