2019/02/08 上野散歩 03 暗闇坂/東京大学医学部戦没同窓生の碑/弥生式土器発掘ゆかりの地/旧向ヶ丘弥生町/東京大学浅野地区遺跡案内/覚性寺

公園の北側を西に進む。
根津に職場があった十数年前時に散策したことがあるエリアだが、少ししか覚えてない・・・。



暗闇坂

google mapに載っていたので来てみたが、説明板などは確認できなかった。
WEBで調べるとどうやら説明板があるらしい?
ちょうど道路工事の現場になっていたので車の陰になって見えなかったか、一時的に撤去しているものと思われる。




東京大学医学部戦没同窓生の碑

竹久夢二美術館の塀に碑があった。






 昭和六年(1931)から昭和二〇年(1945)まで十五年(満州事変、日中戦争、太平洋戦争)にわたる戦争で東京大学 も多数の戦没者 を出したが戦後五〇年のあいだその実数は不明のままであった。このたび大学による学徒出陣の調査が行われ千七百人近い戦没者が明らかになったが、その実数は二千五百人にも達すると推定されている。
 私たち医学部卒業生有志はこの事実に驚き、悲しみ、世紀が変わる前に追悼の碑を建ててこの事実を後世に伝えるべく追悼基金を組織した。
 この「東京大学戦没同窓生之碑」は、大学正門前のこの地にお住みの方々から温かいお心をいただいて建立が可能になり、同窓生あい集って建立するものである。
 「避けがたい状況下に、愛する人々のために一命を捧げた」若者たちのいたましくも悲しい事実を歴史に刻む碑であって、戦没同窓生への深い思いを「天上大風」という良寛の言葉に託した。
 今世紀最後の東京大学五月祭初日の今日、ここに同志あい集ってこの碑を建立し音楽と花を捧げ深い哀悼を世に伝えるものである。





弥生式土器発掘ゆかりの地




特に説明板などは無かった。
後でここに関する説明板が登場するのでそちらで紹介する。




◆旧向ヶ丘弥生町




 江戸時代は、御三家水戸藩中屋敷であった。明治2年新政府に収容され、同5年町屋ができて、向ヶ丘弥生丁と名づけた。
 町名のいわれは、文政11年(1828)3月10日・水戸家9代徳川斉昭が屋敷内に建てた歌碑からとられた。
 「ことし文政十余り一とせといふ年の <やよい> の十日さきみだるさくらがもとに かくはかきつくこそ」
と述べ、次の歌が刻まれていた。
 名にしおふ春に <向ふが岡> なれば 世にたぐひなきはなの影かな

 明治17年、ここの貝塚から発見された土器は、町名をとり弥生式土器命名された。





東京大学浅野地区遺跡案内





 浅野地区の名称は、明治20年(1887)、本郷区向ヶ岡弥生町(旧町名)に移転した浅野侯爵邸敷地の大部分が、戦中から戦後にかけて大学敷地となったことに由来します。弥生町は「弥生時代」の由来となった土器(東京大学総合研究博物館蔵)が、明治16年(1884)に発見された町として、全国に知られています。浅野地区では「弥生二丁目遺跡」、工学部武田先端知ビルなどで、弥生時代の遺跡が調査され、環濠集落、方形周溝墓から弥生式土器が出土しました。



旧向ヶ丘弥生町

 江戸時代は、御三家水戸藩中屋敷であった。明治5年、町屋ができて向ヶ丘弥生町と名づけられた。
 町名は、水戸家9代斉昭が屋敷内に建てた歌碑からとられた。
 「文政十余り一とせといふ年の <やよい> の十日・・・・・何しおふ春に <向ふが岡> なれば 世にたぐいなきはなの影かな」
 明治17年、ここの貝塚から発見された土器は、町名をとり弥生式土器命名された。





◆覚性寺





続く。