2019/02/08 上野散歩 05 東京大学/サトウハチロー旧居跡/異人坂/根津駅前の商店街/宮の湯/稲荷大明神/天眼禅寺

先程のエリアからどんどん東へ進む。
根津駅周辺を散策。


東京大学

東京大学浅野地区。
google mapにはこの後者の下あたりに「弥生二丁目遺跡」がある。
関係者以外立ち入り禁止だったの江中には入らなかった。




サトウハチロー旧居跡



 此の世の中で
  唯一つのもの
   そは母の子守唄
      サトウハチロー

詩人・サトウハチロー(1903~1973)は、昭和12年から昭和48年まで、ここに住んで、数多くの詩や小説を書いた。中でも”ちいさい秋みつけた”の詩ではこの庭にある櫨(はぜ)の木を見て、「はぜの葉紅くて入日色」とうたっている。(作曲・中田喜直)ハチロー没後、その妻・房江が”サトウハチロー記念館”として、昭和52年から一般公開したが、房江没後の平成7年11月末日をもって、記念館は岩手県北上市に移転した。




 本名は佐藤八郎(1903~1973)詩人・童謡作家。
 小説家佐藤紅緑[こうろく]の長男として、明治 36年(1903)市谷薬王寺前町に生まれた。大正 5年(1916)小日向台町小学校を卒業し、早稲田中学に入学した。この頃から詩を書き始め、16歳のとき西条八十に師事し、詩を学んだ。
大正10年(1921)『金の船』や『少年倶楽部』などに童謡を発表し、大正 15年(1926)に詩集『爪色の雨』を発刊、詩人として歩み始めた。
 昭和 12年(1937)上野桜木町から向ヶ丘弥生町に移った。
週一回の、詩の勉強会"木曜会"が開かれ『木曜手帳』が刊行されたのも、この地である。
 昭和52年(1977)自宅の一階を改装して記念館が開館され、原稿や愛用品が展示されたが、記念館は平成 8年(1996)岩手県北上市に移った。
 庭の一隅に、童謡『ちいさい秋みつけた』に歌われた"はぜの木"があったが、平成 13年(2001)10月礫川内に移植された。


そういえば、行ったことがある。
ovanrei.hatenablog.com




◆異人坂



 坂上の地に、明治時代東京大学のお雇い外国人教師の官舎があった。ここに住む外国人は、この坂を通って、不忍池や上野公園を散策した。当時は、外国人が珍しかったことも手伝って、誰いうとなく、外国人が多く上り下りした坂なので、異人坂と呼ぶようになった。
 外国人の中には、有名なベルツ(ドイツ人)がいた。明治9年(1876)ベルツは東京医学校の教師として来日し、日本の医学の発展に貢献した。ベルツは不忍池を愛し、日本の自然を愛した。
 異人坂を下りきった東側に、明治25年(1892)高林レンズ工場が建てられた。今の2丁目13番地付近の地である。経営者は朝倉松五郎で、日本のレンズ工業の生みの親である。


旧向ヶ丘弥生町

 江戸時代は、御三家水戸藩中屋敷であった。明治5年、町屋ができて向ヶ丘弥生町と名づけられた。
 町名は、水戸家9代斉昭が屋敷内に建てた歌碑からとられた。
 「文政十余り一とせといふ年の <やよい> の十日・・・・・何しおふ春に <向ふが岡> なれば 世にたぐいなきはなの影かな」
 明治17年、ここの貝塚から発見された土器は、町名をとり弥生式土器命名された。



根津駅前の商店街






金栗四三をかなり推してる。




◆宮の湯




稲荷大明神




ものすごくわかりづらい路地裏に建っている神社。
探すのに苦労した。




◆天眼禅寺


太宰春台(だざいしゅんだい)墓

 太宰春台は江戸時代中期の儒学者経世家です。名を純といい、字をと徳夫と称していました。信州飯田に生まれ、江戸に出て但馬出石(たじまいずし)藩の松平氏に仕えました。17歳で儒学者中野撝謙に師事し、朱子学を学びました。元禄十三年(1700)、21歳で官を辞し、以後10年の間京都、畿内を遊学し、その間に古学派に親しみました。
 正徳三年(1713)、再び江戸に出て、荻生徂徠に復古学を学びました。孔氏伝古文孝経を研究し、校訂して音註を作り、諸藩に分かちました。また儒学の基本をなす経学の分野では、『論語古訓』および『論語古訓外伝』など数十巻を著しました。儒学の思想に関するものとしては『聖学問答』、『弁道書』などがあります。
 延享四年(1747)五月晦日、68歳で没しました。お墓は円頭角柱形の桿石に隷書で「春台太宰先生之墓」と題し、三面に銘文を刻んでいます。高さ1.32m。





続く。