2019/02/08 上野散歩 07 本光寺/一乗寺/谷中清水町公園/三段坂/カヤバ珈琲/旧吉田屋酒店/寛永寺 01

さらに東へ進んで寛永寺にたどり着く。
上野周辺は何度か散歩したことがあるが、寛永寺は初めてだなあ。



本光寺





一乗寺



太田錦城(おおたきんじょう)墓

 太田錦城(1765~1825)は江戸時代中期の儒学者で、名は元貞、字は公幹、錦城は号である。才佐と称し加賀大聖寺に生まれ、皆川淇園、山本北山に折衷派を学んだが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、ついに一家を成した。いわゆる折衷学派という。晩年に至り一時、京畿に遊び、老中吉田侯に仕えたが、前田家に賓使として招かれ、三百石を給せられた。文政八年四月二十三日、年六十一で没した。著書には『周易詳説』『尚書精義』『詩精義』『乱賊伝』その他非常に多くの著述があり、長子は加賀侯に仕え、三男は吉田侯に儒学をもって仕えた。





◆谷中清水町公園



公園内に旧町名板があったが判読不能であった。




◆三段坂




台東区史』はこの坂について、「戦後、この清水町に新しい呼名の坂が、19番地から21番地にかけて屋敷町の大通りに生れた。段のついた坂なので三段坂と呼ばれている。」と記している。戦後は第二次大戦後であろう。清水町はこの地の旧町名で、この坂道は明治二十年(1887)版地図になく、同二十九年版地図が描いている。したがって、明治二十年代に造られた坂である。



◆カヤバ珈琲

古民家カフェ。
ふわふわのたまごサンドが名物とのことだが、中に入ったことがないなあ。
今度行ってみよう。



◆旧吉田屋酒店

下町風俗資料館付設展示場・・・要するに別館だね。
一度来たことがある。

ovanrei.hatenablog.com




寛永寺 01




 旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応四年(1868)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治九年(1876)から12年にかけて、埼玉県川越市喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永十五年(1638)の建造といわれる。
 間口・奥行ともに七間(17.4メートル)。全面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をまぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重棰とし、細部の様式は和様を主とする。
 内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。




境内地図



縁起







了翁禅師(りょうおうぜんじ)塔碑




 了翁禅師(1639~1707)は、江戸時代前期の黄檗宗の僧です。俗姓は鈴木氏。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃から仏門に入り、後に陰元禅師に師事します。諸国を廻るうち、霊薬の処方を夢に見て「錦袋円(きんたいえん)」と命名し、不忍池に薬屋を俗甥の大助に営ませます。その利益で難民救済や寛永寺に勧学寮(図書館)の設置などを行いました。
 こうした功績により輪王寺宮から勧学院権大僧都法印位を贈られています。宝永四年、78歳で没し、万福寺塔頭天真院に葬られました。
 本碑は了翁禅師の業績を刻んだ顕彰碑で、生前に作られたものです。元々建てられた場所や、現在の場所に移築された時期などは不明です。



尾形乾山墓(おがたけんざん)碑・乾山深省蹟(しんせいせき)




 尾形乾山 は、琳派創始者として著名な画家・尾形光琳 の弟である。寛文三年(1663)京都で生まれた。乾山のほか、深省・逃禅・習静堂・尚古斎・霊海・紫翠の別号がある。画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で、正徳・享保年間(1711〜1735)、輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。
 享保三年(1743)八十一歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。しかし、月日の経過につれ、乾山の墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う酒井抱一 の手によって探り当てられ、文政六年(1823)、顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられた。抱一は江戸琳派の中心人物で、文化十二年(1815)に光琳百回忌を営み、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行、文政二年には光琳墓所を整備するなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。墓碑及び「乾山深省蹟」は、上野駅拡張のため移転した善養寺(現、豊島区西巣鴨四-八-二十五)内に現存し、東京都旧跡に指定されている。
 当寛永寺境内の二つの碑は、昭和七年、その足跡が無くなることを惜しむ有志により復元建立されたものである。その経緯は、墓碑に刻まれ、それによると現、善養寺碑は、明治末の善養寺移転に際し、両碑共に当時鶯谷にあった国華倶楽部の庭へ、大正十年には公寛法親王 との縁により寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと、三たび移転を重ねたとある。
 なお、入谷ロータリーの一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。




旧本坊表門・根本中堂 鬼瓦




 この鬼瓦は、現在「黒門」の通称で親しまれている、寛永寺旧本坊表門(国指定有形文化財)に据えられていたものです。
 旧本坊表門は寛永初年に、寛永寺 の開山である天海大僧正 自身が建てたものであり、天海自身をはじめ、いわゆる歴代の輪王寺宮 が住まわれた場所の門でした。この門は、昭和十二年現在の東京国立博物館の地から現地に移築され、平成二十二年から行われた解体修理によって修復されました。この時の調査により、現鬼瓦の制作年代は不明ながら、東側の「阿」形より「吽」形が古いこと、かつては、鳥襖(とりぶすま)(鬼瓦の上に長く反って突き出した円筒状の瓦)を接合する部分が設けられていましたが、現存の鬼瓦には鳥襖を取り付けた痕跡がなかったことが分かっています。
 東側にあった「阿」形は耐用年数を過ぎていたため、修復のおりに西側に意匠を合わせて作り替え、新たな息吹を門に与えています。この修復を機会としてKん栄治根本中堂の屋根にあった鬼瓦と合わせ、ここに展示いたします。

◆旧本坊表門鬼瓦「阿」形
 高さ113cm×横幅118cm
寛永寺根本中堂鬼瓦
 高さ248cm×横幅325cm



増山雪斎(ましやまっせっさい)博物図譜関係資料 虫塚碑




 虫塚は伊勢長島藩主、増山雪斎が写生図譜である「虫豸帖(ちゅうちじょう)」の作画に使った虫類の霊をなぐさめるため、雪斎の遺志によって文政4年(1821)に建てられた。
増山雪斎は、宝暦四年(1754)に江戸で生れた。本名を正賢といい、雪斎・玉園・蕉亭・石顚道人・巣丘隠人などと号した。江戸の文人大田南畝や大阪の豪商木村兼葭堂など、広く文人墨客と交流を持ち、その庇護者としても活躍した。自ら文雅風流を愛し、清朝の画家、沈南蘋に代表される南蘋派の写実的な画法に長じ、多くの花鳥画を描いた。中でも虫類写生図譜「虫豸帖」(都指定有形文化財東京国立博物館所蔵)はその精緻さと本草学にのっとった正確さにおいて、殊に有名である。文政二年、66歳で没した。
虫塚は当初、増山家の菩提寺寛永寺子院勧善院内にあったが、昭和初期に寛永寺に合併されたため、この場所に移転した。勧善院は、四代将軍徳川家綱の生母で、増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺として創建された。
碑は安山岩製で台石の上に乗る。正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が碑の建設にかかわったことが知られる。



上野戦争碑記




銅鐘




 本鐘の大きさは、総高177.2センチ、口径91.8センチ。厳有院殿(四代将軍家綱)の一周忌にあたる、延宝九年(1681)5月8日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられる。現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。
 作者の椎名伊予守吉寛(しいないよのかみよしひろ)は、江戸時代前期(十七世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。延宝元年(1673)から貞亨三年(1686)にかけて、銅鐘を中心に17例の作例が知られている。その中には増上寺寛永寺などに関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。
 本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳物技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。
 平成十八年(2006)に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。



徳川綱吉霊廟勅額門




 五代将軍綱吉は、延宝八年(1680)五月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永六年(1709)一月十日に六十三才で没した。法名を常憲院という。綱吉ははじめ、善政を行ない「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。
 元禄十一年(1698)九月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。又、それに伴って先聖殿(現湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。
 綱吉の霊廟は宝永六年の十一月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみても、もっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。




天璋院篤姫墓所

たぶん、上記の勅額門をくぐったところにあるんだろうか?
たまに見学できる日があるみたい。




 天璋院篤姫天保六年(1835)十二月十九日、薩摩藩今和泉島津家島津忠剛(ただたけ)の長女として今和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて生を受けました。(幼名一子(かつこ)・於一(おかつ))
 嘉永六年(1853)、島津家28代当主島津斉彬(なりあきら)の養女となり、名を篤姫と改めて鶴丸(鹿児島)城に入り、また同嘉永六年(1853)中に鹿児島を出立し京都の近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸に入っています。
 その後、安政三年(1856)に近衛家の養女となり、名を敬子(すみこ)と改め、同安政三年(1856)に徳川十三代将軍家定(いえさだ)公の正室として輿入れしました。
 この輿入れの際に、篤姫は斉彬より14代将軍に一橋慶喜を推すようにとの密命をうけていましたが、家定公は心身が虚弱で、入輿からわずか2年後の安政五年(1858)に逝去され、十四代将軍には紀州の慶福(よしとみ〔のちの家茂公〕)が就任しています。(落飾し、天璋院とごうする。)
 また同安政五年(1858)、養父斉彬が逝去され、篤姫はその密命を果たせぬまま、夫と養父を相次いで亡くしました。
 しかし、落胆の中でありながら、篤姫は若き将軍の補佐によく勤め、また大奥をまとめる為にも尽力しました。
 公武合体のため、家茂公のもとへ降嫁した和宮(かずのみや)とは当初は対立していましたが、のちに心を通わす仲となり、その後敵対してしまった実家(薩摩)に対し、徳川家の存続を歎願するなど江戸城無血開城にも大きく貢献をしています。
 明治になると、わずか6歳で徳川家を継いだ十六代家達(いえさと)公の養育に余生を捧げ、明治十六年十一月に48歳で亡くなるまで、徳川家の為にその生涯を捧げました。
 なお、墓所は5代綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には好物であったとされる枇杷びわ)の木が植えられています。



徳川家綱霊廟勅額門




 四代将軍家綱は、慶安四年(1651)四月に父・家光の死に伴って、わずか10才で将軍の座につき、延宝八年(1680)五月八日に39才で没した。法名を厳有院という。
 病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起った由比正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。
 家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
 なお、このうち水盤舎は延宝八年(1680)に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和三十二年(1957)の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。





これがたぶん上記の「水盤舎」だと思う。



JR山手線鶯谷

崖下にホームが見えた。





続く。