2019/02/16 上野散歩 03 跨線橋/御隠殿坂/徳川慶喜墓所/聖亜使途大主教ニコライの墓/谷中寺町と谷中霊園/妙雲寺

線路の東側エリアからまた別の跨線橋を渡って谷中霊園のある西側エリアに来る。
谷中霊園ってかなり広いね・・・・。



跨線橋







◆御隠殿坂





明治四十一年(1908)刊 『新撰東京名所図会』に、 「御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路をいふ。もと上野より御隠殿への通路なりしを以てなり。」とある。 御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。 「鉄道線路を経て」は踏み切りを通ってである。




徳川慶喜墓所谷中霊園内)
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 徳川慶喜(1837~1913)は、水戸藩徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継いで後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応二年(1866)、十五代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応四年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
 駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治三十一年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治三十五年(1902)には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正二年(1913)十一月二十二日に77歳で没しました。
 お墓は、間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。



◆聖亜使途大主教ニコライの墓



1861年 司祭ニコライ・カサーツキンとして来日。1912年永眠まで日本全土に布教、1970年4月10日、日本自治独立正教会となるに及んで、その功績が広く世界に認められ、日本最初の聖人として列聖される。



◆谷中寺町と谷中霊園



「寺院の屋根の下に谷中の町がある」という表現がおおげさでないほど寺が多く、その数は七十数軒にもなる。
寛永年間(1624年~43年)、上野寛永寺の子院がこの高台に多く建立されたのが谷中寺町の始まりである。それ以前は鎌倉時代創建の感応寺(現天王寺)ほか数える程しか寺院は無かった。
そして、慶安年間(1648年~51年)、江戸船井再開発という幕府の施策で、神田あたりの相当数の寺院が谷中に移転してきた。また、明暦の大火(1657年)の後も、江戸府内の焼失寺院がかなり移ってきた。寺の門前に町屋が形成され、また参詣にくる人で賑わい、庶民の行楽地となったのもこの頃である。
幕末の慶応4年(1868年)、上野戦争の兵火は谷中を襲い多くの寺院が焼失したが、その後再建され、震災、戦災にもあわず、昔ながらの情緒を持った寺町を今日に残している。
谷中霊園は、明治5年(1872年)、旧天王寺境内の一部を官有とし、それに天王寺墓地、徳川墓地の一部などをあわせた谷中墓地がその始まりである。そして明治7年1874年)、東京都の公共墓地として発足した。東京の三大霊苑の一つに数えられ、広さ約10万平方メートル、現在の墓地使用者は六千余りである。幕末、維新以降の著名人の墓碑が数多くある。




上の説明板のすぐ近くの壁にあった。




◆妙雲寺





続く。