2019/03/19 本所吾妻橋散歩 04 乾徳稲荷神社/森鴎外住居跡/牛嶋学校跡/森鴎外旧居跡/越後長岡藩抱屋敷跡

ソラマチ周辺から北西に移動。
閑静な住宅街が広がる。



◆乾徳稲荷神社
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中に入ることはできたが、かなり厳重なフェンスだね・・・・・。





森鴎外住居跡
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 文久二年(1862)に現在の島根県津和野町に生まれた森鴎外(本名林太郎)は、明治五年(1872)十歳の時に父静男に随い上京しました。初めに向島小梅村の九津和野藩主亀井家下屋敷、翌年上京した家族とともに三年後には小梅村237番にあった三百坪の隠居値を購入して移り住みました。茅葺の家の門から玄関までの間には大きな芭蕉があり、鴎外が毛筆で写生したという庭は笠松や梅、楓などが植えられた情緒的で凝った造りでした。この向島の家のことを森家では「曳舟通りの家」と呼び、千住に転居する明治十二年まで暮らしました。
 父の意思で学業に専念する道をつけられた鴎外は、上京二か月後には西周(にしあまね)宅に下宿して進文学社ドイツ語を学ぶ日々と過ごし、東京医学校予科(現東京大学医学部)に入学しました。明治九年以後は寄宿舎生活となりましたが、曳舟通りの家には毎週帰り、時おり向島の依田学海(よだがっかい)邸を訪れて漢学の指導を受けていました。鴎外の代表作『渋江抽裁』には「わたくしは幼いころ向島小梅村に住んでいた」と記し、弘福寺常泉寺などがある周辺の様子や人々についても詳しく書き残しています。また、明治十年代に原稿用紙に用いたという「牽舟居士(ひきふねこじ)」の号は近くを流れていた曳舟川(現在の曳舟川通り)にちなむものでした。鴎外にとって、向島小梅村周辺での生活は短いものでしたが、思い出深い地として記憶にとどめられていたようです。





◆牛嶋学校跡

 明治五年(1872)学制が発布され、近代的教育制度が始まったわずか六か月後の同六年(1873)三月二二は、須崎村(現在の向島三丁目)に公立小学校が設立され五月に現在地に移転しました。
 牛嶋学校は、周辺の人びとの教育に対する関心の高さから公立小学校としては本区で最も早く設立されました。当時牛嶋学校への寄付者は、須崎村にとどまらず、中ノ郷・小梅村など、現在の向島全域にも及びました。
 昭和一六年(1941)、牛島国民学校となりましたが同二〇年(1945)三月一〇日の大空襲によって全焼しました。
 戦後廃校が決まり同二一年(1946)七三年間の歴史を閉じましたが、この間に堀辰雄佐多稲子ら多くの著名人を輩出しました。また榎本武揚の筆による「牛嶋学校」の扁額(墨田区登録文化財)が戦災をまぬがれ、現在、すみだ郷土文化資料館に保存されています。
 そして、昭和二一年四月、廃校となった牛島国民学校跡に東京都立本城高等女学校が転入開校し二三年四月に新制本所高等学校となりました。



上記「森鴎外住居跡」の写真に写っている学校がその跡地らしい。






森鴎外旧居跡




 森家は津和野藩主亀井家の御典医を勤めていました。明治5(1872)年、鴎外は亀井家に壊れた父に随い上京、向島の同家屋敷に入った後、すぐ小梅村に転居します。同年8月には、勉学のため神田にあった親戚筋の西周邸に寓し、明治7(1874)年に東京医学学校予科に入学、同9(1876)年に同校の寄宿舎に移りました。向島での生活は短いものでしたが、深い愛着があったようで、「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた。」(『『渋江抽裁』』)と楊枝の記憶を綴っており、妹の喜美子は、ペンネームを鴎外のほかにも「牽舟居士(ひきふねこじ)」を使用していたと述懐しています。






越後長岡藩抱屋敷跡




[越後長岡藩]
 元和4(1618)年、牧野忠成が立藩、以来13代続いた譜代大名です。石高は7.4万石ですが、常に幕閣の中核を担い、幕末には9代忠精(ただきよ)、10代忠雅、11代忠恭(ただゆき)が続けて老中を努めました。その抱屋敷が小梅村(本所高校西側一帯)にあり、敷地は6,760坪という広大なものでした。しかし、戊辰(北越)戦争では忠恭に仕えていた家老・河井継之助の奮闘むなしく敗れ、2,4万石に減封、廃藩置県の前年、明治3(1870)年には藩が廃されました。

[抱屋敷]
 江戸時代、全国300諸藩諸侯は参勤のため幕府より使途に応じた屋敷を拝領していました。藩主の住む上屋敷、隠居・世継用の中屋敷、物資の保管や保養先の下屋敷等です。これらに対し、抱屋敷は半自らが農地などを購入して設けたもので、大半は郊外にあり、個人の調度品などを保管したり、時には下屋敷としての用途にも充てられていました。



続く。