2019/03/19 本所吾妻橋散歩 08 俳人富田木歩終焉の地碑/枕橋さなだや/隅田公園/隅田川ボート記念碑/明治天皇海軍漕艇天覧玉座址/枕橋/本所吾妻橋商店街

隅田公園の後は道路を渡って川沿いを散策。
こちらも隅田公園
28日はどこで花見をやろうか見てみたけど、あまりシートを広げられそうなところはないなあ・・・・。





俳人富田木歩終焉の地碑

 木歩は本名を一(はじめ)といい、明治三十年に墨田区向島2丁目の鰻屋の次男に生まれました。2歳のとき両脚の自由を失い、小学校に入学できず、彼はいろはカルタ等で遊びながら文字を覚えました。
 たびたびの洪水で家は貧乏のどん底に陥り、2人の姉は苦界に身を沈め、妹は女工に弟も内職の手伝い、彼も徒弟奉公に出ました。しかし仲間に辛く当られ仕方なくやめました。こうした苦しみと孤独の中で、彼は俳誌『ホトトギス』を知り、俳句に惹かれます。
 やがて、彼は臼田亜浪に師事して句作に精進し、その俳句は高く評価されるようになります。彼を理解し援助する新井声風という俳友もでき、彼に俳句を学ぶものもできました。しかし、妹も弟も肺患で死に彼自身も肺を病むといった苦境での句として、
   かそけくも 咽喉鳴る妹(いも)よ 鳳仙花(ほうせんか)
 木歩は関東大震災にあり、声風に背負われて墨堤に避難しましたが、枕橋が焼けて逃げられず、このあたりで焼死しました。26歳でした。





◆枕橋さなだや





 当時は堀留となっていた源森川に架かる橋で、作品の中では源森橋、源兵衛橋と名を変えて出てきます。その北隣の水戸家下屋敷に引き込まれた水路に架かる小梅橋と対になると夫婦が枕を並べた様子に似ていることから、枕橋と呼ばれていました。
 鬼平犯科帳では、その北詰にある蕎麦屋(さなだや)がいっしょに数多く登場します。「蛇の目」ではその店で、平蔵独特の勘ばたらきからあやしい奴に出くわし、追跡する場面があります。実はこの男、大盗み・蛇の平十郎で、源兵衛橋の下に潜り込んで、まんまと逃げ失せてしまいます。鬼平犯科帳の番外編とされる「にっぽん怪盗伝」収録の「正月四日の客」は、(さなだや)が舞台になり、亭主の庄兵衛と客の亀の小五郎とのむだ口のないやり取りが実にいい味を出しています。





隅田公園
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江戸時代の墨堤
 
 江戸時代以前の墨堤は、牛午前と呼ばれる牛嶋神社に表されるように、放牧や農業(田畑)を営む地域でした。
 江戸時代に入り、三代将軍家光の頃から盛んに鷹狩りなどが行われるようになり、徐々に江戸の市民に景勝地として認知されてきました。
 墨堤の桜の始まりは、四代将軍家綱の頃の植桜とされていますが、実際は八代将軍吉宗の頃の植桜を期に江戸の花見の名所として認識され、上野寛永寺飛鳥山・御殿山とともに江戸の桜の名所として親しまれました。
 当時の墨堤の繁栄の様子は、数多く残されている浮世絵や俳句・和歌などによって今に伝えられています。









隅田川ボート記念碑(隅田公園内)

 夏目漱石も漕ぎ、福沢諭吉も漕ぎ、レガッタは「春のうららの隅田川」と滝廉太郎の「花」にも歌われ、ボートは隅田川の華であった。全日本選手権、海外との交流試合、大学対抗戦など主要なレガッタが数々開かれ、隅田川は日本のボートの中心地となった。しかし、戦後復興の陰で産業排水などにより、川の汚染が進み、昭和三九の東京五輪のために戸田ボートコースが整備されたのを契機に隅田川離れが進み、昭和四二年の一橋大学艇庫閉鎖を以って隅田川の艇庫群が姿を消した。最盛時の面影を今に伝えるのは早慶レガッタのみである。





明治天皇海軍漕艇天覧玉座

 この碑の建つ場所は、明治年間に幾度も明治天皇レガッタ視察のために玉座をしつらえた場所です。
 現在は堤防が整備されて隅田川の様子があまり見えませんが、かつては土で造った堤防に桜が植えられ、たいへん風情のある光景でした。そうした場で、明治15年(1882)11月21日、明治26年(1893)6月3日、明治27年(1894)4月2日、明治29年(1896)12月18日の4度にわたりレガッタを展覧したのです。
 隅田川レガッタの歴史のひとつを物語るこの石碑は昭和16年(1941)11月に建碑されました。





◆枕橋







隅田川との境に水門「源森川水門」があった。








 寛文二年(1662年)、関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷(現在の吾妻橋)から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。またその北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。
 その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。明治8年、残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。
 現在の枕橋は昭和3年に架け替えられたものである。昭和63年、本橋は東京都著名橋に指定された。




本所吾妻橋商店街







本所吾妻橋にまた戻ってゴール!
少ししか歩いてないのにものすごい情報量・・・・。
街のあちこちにある地図や案内を見ると、google mapに載っていない史跡もあるみたいだね。
また今度ゆっくり見て回ろうと思う。