2019/05/17 小岩散歩 02 暗渠?/バラ/小岩の一里塚とその先の高架/北小岩一丁目歩道橋/寶林寺/御番所町跡

小岩駅南側のエリアからガードをくぐって北側エリアに入る。



◆暗渠?




たぶん暗渠だとおもう。
今度調べてみよう。




◆バラ




バラが綺麗に咲いているお宅があった。





◆小岩の一里塚とその先の高架




 一里塚とは、江戸時代の街道付属施設の一つで、江戸日本橋を起点に一里( 約4Km )毎に、道の両側に築造され、榎を植えるのが定型になっていました。
 小岩の一里塚は、総武線のガードの南側で千葉街道沿い、岩槻街道との分岐点にありました。昔は小高い丘になっていて、須賀神社の小祠もあって、昔日の一里塚の名残りを留めていました。
 「葛西誌」には「此辺の一里塚も慶長年中(1596-1614)、本多佐太夫・永田弥右衛門・太田勝兵衛等が奉行して築きしなるべし」と記されています。
 昭和三十九年)六月頃、須賀神社は北野神社(北小岩3-23-3)に合祀され、一里塚の跡には民家が建ち、全くその姿を失いました。今では、バスの停留所名にその名をとどめています。



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「~ガード」って名前が付いているはずなんだが見当たらなかった。





◆北小岩一丁目歩道橋
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◆寶林寺
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「宝林寺」でもいいようだね。
こちらも一度来ている。
2018/02/05 小岩散歩 04 小岩菖蒲園/京成電鉄 江戸川橋梁/小岩市川の渡し跡/御番所町の慈恩寺道石造道標/北野神社/京成江戸川駅/宝林寺/本蔵寺 - ovanの社会科見学



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 真言宗豊山派に属し、愛宕山地蔵院と号します。元は千葉県国分(市川市)の金光明寺の末です。起立は文秀法印(慶長十二年・1607没)で、本尊は不動明王です。本堂前には常燈明(じょうとうみょう)が、墓地には旧伊豫田村(現在の北小岩3丁目ほか)の開拓者・篠原伊豫の伝わる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。

■ 常燈明
 元は小岩市川の渡し場に建てられていました。昭和九年に河川改修のため、ここに移されました。この渡しは江戸時代には成田詣での人達で賑わいました。この常燈明は千住総講中の人達に依って天保十年(1839)に建てられました。灯籠の高さ2m、台石は五段に組まれていて、高さは1.82mあります。

■ 寶林寺所在の地蔵菩薩庚申塔
 参道入口に他の石仏群と共に祀られています。舟型で地蔵菩薩立像は半肉彫、左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。像高は144cm、寛文十年(1670)に建てられました。







◆御番所町跡




こちらも一度来たことがある。
2018/02/05 小岩散歩 04 小岩菖蒲園/京成電鉄 江戸川橋梁/小岩市川の渡し跡/御番所町の慈恩寺道石造道標/北野神社/京成江戸川駅/宝林寺/本蔵寺 - ovanの社会科見学
説明板が新しくなってる!

 ここは旧伊予田村に属し、佐倉道と元佐倉道の合流するとことで南北に走る岩槻道にも接する交通の要衝でした。小岩市川の渡しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから御番所町と称したと思われます。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』の伊予田村の頃にも、関所は「新町内江戸川の傍にあり、ここを御番所町とも云」と書かれています。
 御番所町は、『徳川実紀』、延宝2年(1674)の記事にある佐倉道(元佐倉道)の小岩の駅(宿場)に当たるもの考えられます。
 かつては旅籠屋を兼ねた小料理屋を始め、鮨屋、雨屋、豆腐屋、ぬか屋、掛茶屋などが並んでいたと伝えられます。街道の江戸川に突きあたる付近が関所跡で、関所から来ると正面左に「御番所町の慈恩寺石造道標」が望めました。今も原位置にあり、道路の様子も旧状をとどめています。そのほかにも、江戸川畔にあった常燈明(宝林寺内)や、関所役人中根家の墓(本蔵寺墓地)など、ゆかりのある旧跡がよく残っています。




続く。