2019/06/07 群馬ツアー 02 旧中島家住宅/堺赤レンガ倉庫/織間本陣跡/観音山古墳/高崎駅

西にある高崎方面に向けて移動。
黄金に輝く麦畑がとても美しかった。




◆旧中島家住宅




中島飛行機創始者、中島知久平の住宅。
ものすごく広くて立派な住宅である。

wikiには・・・・
『中島 知久平(なかじま ちくへい、明治17年1884年)1月1日 - 昭和24年(1949年)10月29日)は日本の海軍軍人、実業家、政治家。中島飛行機(のちに富士産業、富士重工業を経て、現在のSUBARU)の創始者として知られ、政治家に転じてからは大臣や政友会総裁を務めた。 』
とあった。













まだ修復が完全ではなく、一部の部屋にしか入れなかった。





滑走路があって飛行機が飛ぶところを客人に見てもらっていたそうだ。
やることがちがうね!(w




『昭和24年(1949年)10月29日:脳出血のため、泰山荘にて死去。』
泰山荘は国際基督教大学内にある文化財
中島飛行機三鷹研究所は国際基督教大学の敷地内に以前あったとのことで、一部建物が校舎として使われているとのこと。


泰山荘に行ってきたときの日記。
2018/10/20 国際基督教大学 「泰山荘見学会」 - ovanの社会科見学



他、中島飛行機関連のオヴァン日記。
2016/11/23 健康ウォーク2016 - ovanの社会科見学

2017/03/09 part3 NTT技術資料館 - ovanの社会科見学



多磨霊園のお墓があるとのこと。
2017/02/13 part4 多摩村役場跡/白糸台駅周辺/白糸台掩体壕/多磨霊園 - ovanの社会科見学
今度行ったときは墓参します。









◆堺赤レンガ倉庫



堺赤レンガ倉庫の歴史 

堺赤レンガ倉庫は、境運輸倉庫株式会社により大正8年(1919)に「繭の乾燥場」、「繭の保管庫」として建設された2階建て総レンガ造りの倉庫です。
 この倉庫は、戦時下に兵士用の食糧の乾燥場として使用され、蚕糸業の衰退後は、電気部品製造工場の製品庫として使用されました。
 また、この倉庫からの繭の輸送には東武伊勢崎線明治43年(1910)開通)が利用され、世界遺産である「富岡製糸場」にも運ばれていたとのことです。
 平成28年(2016)にぐんま絹遺産に登録されたこの倉庫は、かつて蚕種・養蚕・製糸・織物などの絹産業で栄えた境地区の歴史を今に伝える貴重な遺産です。

 
イギリス積み
 レンガの積み方には、長手面の段と小口面の段が交互に並ぶイギリス積みと1段に長手面と小口面が並ぶフランス積みが多く見られます。境赤レンガ倉庫はイギリス積みで造られていますが、同じレンガ造りである世界遺産の「富岡製糸場」はフランス積みで造られています。

開口部(窓など)
 境赤レンガ倉庫には、南側1階に出入り口が3ヶ所、2階窓が7ヶ所設けられています。北側には開口部はありません。出入り口のアーチ部分のキーストーン(要石)には、「さ」の文字が記されています。










◆織間本陣跡

 旧例弊使街道、境宿織間本陣 は寛文二年(1662年)に伊勢崎藩士鶴田弥太夫氏の家を当地に移築したものである。茅葺平家建ての主家と片袖付門構えは古い建築様式をそのまま残しており、本陣として旧境町の町指定史跡であった。本陣跡の建物は門をくぐり大玄関を上ると九部屋を配し、広い土間(ダイドコ)や貴賓の上座の間を有した。
 上座の間から見る中庭には見事な松樹があり来遊した江戸の学者、古賀侗庵 は織間本陣を蒼松幹 と命名した。また文学の名をもって有名な安中城主板倉甘雨亭 候はここに御小休されたときこれをほめ讃えて蒼松幹の軒記を書き与えたのである。
 本陣は例弊使街道を上下する諸大名をはじめ、とくに毎年四月京都より下向する例弊使や公卿門跡衆の休憩を主とした。そのとき関札と呼ばれた休憩時の札が下賜され、門前に掲げられた。
 寛政三年(1791年)四月十二日、小林一茶 は江戸から信州へ行く途中、織間本陣の家主である俳人専車を訪ねたが不在で会うことができなかったので
  - 時鳥我が身ばかりに降雨か -
の一句を残して立ち去ったことが一茶の帰郷日記に書きとめられている。




旧例弊使街道をwikiで調べた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E4%BE%8B%E5%B9%A3%E4%BD%BF%E8%A1%97%E9%81%93





◆観音山古墳





史跡観音山古墳

 群馬県古墳時代後期の代表的前方後円墳である。
 墳丘は、前方部を北々西に向け全長97m、前頭部幅64m、高さ9m、後円部直径61m、高さ9.5mの規模で、すべて盛土で築かれている。中断部と墳頂部には埴輪の配列がある。
 周堀は二重にめぐり、内堀と外堀は中堤(ちゅうてい)で区分される。全長178m、幅143mほどである。
 石室は、後円部に築かれた巨大な横穴式石室で南西に開口する。壁面は榛名山二ツ岳噴出の角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)の切石を積み上げ、天井石は吉井町産の牛臥砂岩(うしふせさがん)が用いられている。
 なお、出土品は県立歴史博物館に展示されている。



観音山古墳の埴輪

 古墳の多い群馬県には、すぐれた埴輪がたくさん知られています。なかでも、この観音山古墳からは、造形的にもりっぱなものが多く発見されていることで有名です。
 墳丘の頂上部には、後円部に円筒列で囲んだ中に家・楯・にわとり・太刀、前方部にも家や楯など、ここに葬られた豪族の安住の館を表現したともいわれる埴輪が置かれていました。
 中段の平坦面には、石室の入り口付近に、祭りを行う一組の盛装した男女とその従者と考えられる三人童女、弓を負う武人・食物を捧げる人から成る祭人グループ、それに続いて、盛装の男子・甲冑を付けた武人・鍬を負う農夫などの葬送儀式に加わる人々とそれを警護する盾持ち人が続き、前方部には地位や財力を表す飾馬と馬引きなど、古墳時代の人々の生活や風俗習慣をうかがわせる埴輪が並べられていました。
 これらの埴輪は、石室から発見された副葬品などとともに、群馬の杜の県立歴史博物館で展示されています。






高崎駅

高崎で反省会。
その後は高崎線、中央線経由で帰宅。
電車でたっぷり寝ちゃいました(w






旅メモ