2019/07/05 04 有楽町散歩 第一相互館跡/有楽町で逢いましょう歌碑/千代田区町名由来板「有楽町」/文明開化とレンガ街/国際フォーラム「太田道灌の展示」/東京府庁舎跡

銀座から歩いて有楽町経由で東京駅へ。
何度も通った道だけど、こんなのもあったっけ?っていうのが少しあった。




◆第一相互館跡











第一相互館
大正10年(1921)竣工
 現在事務所たる大一相互館は、大正四年五月基礎工事に着手し、爾来約六箇年の日子と二百余萬円の巨報とを費やし、暫ら漸く大正十年三月大体落成を見たるが故に、三月三十一日朝野の名土約六百名を招待して、新築披露の式を挙げ、矢野社最の挨拶に次いで原総理大臣、子厨金子堅太郎、子爵渋澤栄一、男爵後藤新平、農商務次官田中陸三及び男辱阪谷芳朗諸氏の祝辞を受けた、翌四月一日には同業者並に関係新聞雑誌記者諸氏を招じ、統いて二、三、四日の三日間は在京一般契約者の観覧に公開し、同十一日移転した。
 本館は当時事務所としては●大に過ぐるの威ありたるも、我社将来の発展に鑑み、且差当り投資の目的を以て、当時日本に頬例なきオフィス・ビルディングの形式を採り、斯界の権威故反野金吾及び葛西萬司両工学博士に設計を依頼しで建築したもので、即ち五、六階全部と四階及び二階の一部を我社に
於いて使用し、他の大部分を貸室として居る。六階の大事務室は客溜の前を会計課、残部を徴収、庶務、契約の三課の顧序に配置し、現員約二百名が此
室に執務して居る。貸室は約八十で、二、三、四階は貸事務所とし、地階だけは店舗用とした。これは従来の大建築が地階を店舗としないため、店舗の排
比を中断して、頗(すこぶ)る街衛の統ーと調和とを彼るのに鑑みて、我社が切めて此設計を採ったのである。又七院は眺望の好きを利用し、一般向きの食堂として公開した。此食堂は展災前は大日本麦酒会社を通じて東洋軒が経営していたが、震災後は第一東洋軒に直営せしめて居る。此二つの計画は我社を以て嚆矢とし、一面投資の安全によりて契約者の利益を期し、他面市の美観と市民の享楽に資する様に留意したのである。
(努一生命二十五年史)


↑●のところはどうやっても判読できなかった(汗
どなたか教えてください。
(o*。_。)oペコッ


『⋯絞戦後間もなく、陛下は、戦災を受けた都市や展村、その附近の工場などを訪問され、苦難と戦いながら働く国民を親しく激励される全国ご巡幸をお
始めになった。
 この全囲のご巡率にあたり、陛下は、まず(昭和)ニ十一年二月ニ十八日に、都心部の焼跡をご視察になり、その途中、第一相互館にお立ちよりになったのである。
 玄関にお迎えした石坂社長はじめ全役員に対して薄茶色のソフト帽子をとっていちいち会駅された陛下は、エレペーターで屋上の展盟台にお上がりになり、地図と引きあわせながら焼け果てた市街をごらんになった。
 モして、石坂社長に「このごろ保険の申込みはどんな状態か」「この建物は大震災のときにも無事だったんだね」などいろいるご質間された。
 相互館の屋上から見下ろす東京は、見わたすかぎり、ただ一面の焼野原である。かつて、この屋上から望まれた帝都東京の偉容は、いまはまったく消え去っ
ていた。⋯』
「第一相互認物話】より





有楽町で逢いましょう歌碑

こちらは以前見に行ってる。
2017/01/19 part1 有楽町→京橋散歩 - ovanの社会科見学




千代田区町名由来板「有楽町」





ぼくの有楽町 童門冬二
 ぼくにとって戦前の有楽町は"高級な街"だった。朝日・毎日・読売の大新聞が毎日、知識の生産をつづけている。日劇(日本劇場)や東京宝塚劇場などの高級劇場が林立している。「山手線の環外は東京でも田舎だ」といわれていた。その環外に住むぼくにとって、有楽町はまさに"遠くに在りて思うもの"だった。
 それが突然「きみたちもおいでよ」という庶民的な街に変質したのは、なんといっても大阪からの「そごうデパート」の進出である。昭和三十二年(1957)五月のことで、エスカレーターやエアカーテンが珍しかった。そして一躍その変貌ぶりをアピールしたのが、フランク永井の歌う"有楽町で逢いましょう"だ。本当はデパートのCMソングだそうだが、そんな気配はみじんもない。銀座と並んで日本の街にした。ちかくの都庁に勤めていたぼくは"すし屋横丁"の常連であり、いまでもその跡を懐かしく訪ねる。現実を超えて、有楽町はぼくの脳裡にしっかり根づいている。

有楽町
「有楽町」の名前は、戦国時代に活躍した武将、織田信長の弟、織田有楽斎(ゆうらくさい)(長益(ながます))に由来します。茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと、徳川家康方に属し、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領しました。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたのです。その「数寄屋橋御門」の名前は、外堀を渡ると数寄屋町に通じることから生まれました。江戸時代、大岡越前による、いわゆる「大岡政談」で有名な南町奉行所があったのもこのあたりです。






◆文明開化とレンガ街




 数寄屋橋ふれあい散歩は、日比谷公園から歌舞伎座までの晴海通りを歩く1.5kmのみちのりです。かつては水路に囲まれた銀座八丁、現在は日本を代表するショッピング街をめぐる散歩道です。

文明開化とレンガ街
 現在の銀座の賑わいは明治に始まる。その頃銀座は、ガス燈・街路樹の続くレンガ街だった。数寄屋橋から銀座にかけての一帯は、文明開化の玄関口新橋ステーションや築地を間近に控え、また新橋から上野・浅草方面へ抜ける鉄道馬車が行き交い、維新後いちはやく過去の街並みが一変したところである。2階建てアーケイド式のレンガ街には草創期の新聞社が数多く軒を連ねた。また、近代商店街のさきがけにふさわしく、洋服屋靴屋・時計屋・化粧品店など洋風の店が並び、情報とショッピングの街として発展。”銀ぶら”ならぬ”レンガへ行く”という流行語を残している。






◆国際フォーラム「太田道灌の展示」


太田道灌




 室町時代中期の武将太田道灌(1432年~1486年)は、江戸城を築き江戸、東京にゆかりの深い人物として知られています。
 この像は、ここに都庁舎があった昭和33年、当地に設置され、長らく都庁のシンボルの一つとして親しまれてきました。
 都庁の移転後、ここが東京フォーラムとして新たに生まれ変わったことに伴い、平成8年5月、ゆかりの深いこの地に復帰することになり、以前と同様に、居城であった旧江戸城(皇居)を望んでいます。
 製作者の彫刻家朝倉文夫氏は、第2次大戦中に旧東京視聴者から撤去、供出された旧太田道灌像の作者渡辺長男氏の実弟です。



江戸城模型






 江戸城室町時代太田道灌が築いた古城だったが、大正18年(1590)に徳川家康が入城して以来、徳川氏の本城となった。江戸城天守は3度建てられており、その初代天守は家東が慶長12年(1607)に創建、二代目天守は二代将軍秀忠が元和9年(1623)に位置を変えて建て替えた。三代目天守は、三代将軍家光が父秀忠の天守を解体し、外観を変えて建て直したしのだったが、明暦3年(1657)の江戸大火(振袖火事)で焼失した。その後は天守台の石垣だけが再築され、天守本体の再建は見送られた。
 家光の江戸城天守は、外観は五重、内部は地上五階、地下一階で、天守台上に44.8m(15階建てのマシションに匹敵)の高さで聳(そび)えた。日本史上最大の天守である。屋根は銅瓦で葺き、壁は銅板張りで、屋根の頂には黄金の板を張り付けた金鯱(しゃち)が輝く。攻撃装置を一切見せない上品な天守で、天下泰平の象微だった。









 東京国際フォーラムが建つこの地には、江戸時代、土佐藩と阿波藩の上屋敷がありました。
 江戸の町は、徳川家康が1603(慶長8)年に江戸幕府を開いて以来、今日に至るまで日本の中心として栄えてきましたが、開幕から遡ること約150年前、1456(康正2)年に江戸城を初めて築いたのが、扇谷上杉氏の家臣であった太田道灌(1432〜1486年)です。
 1957(昭和32)年、開都500年を記念して、旧丸の内第一本庁舎の鍛冶橋通り沿いに太田道灌像が設置されました。
 1991(平成3)年の新宿への都庁移転、1997(平成9)年の東京国際フォーラムの建設を経て、像は現在地に再び設置されました。
 太田道灌は今も、皇居(旧江戸城)の方角を望んで立っています。



各地にある太田道灌



関東戦国史太田道灌の足跡

 1454年(享徳3年)、鎌倉公方足利成氏が間東管領山内上杉憲忠を暗殺したのをきっかけに、関東では利根川を境に室町幕府の関東の拠点であるの鎌倉を押さえた上杉氏と、下総国古河に追いやられた古河公方成氏が対特する「享徳の乱」が始まった。この頃、道灌は家督を譲られ、1457年(長禄元年)
に千葉氏に対抗する拠点として江戸氏の館があった今の江戸城本丸近くに江戸城を築く。築城の際、現在の赤羽、湯島、品川、川崎夢見が崎等が候補地
となったが、地形などを考慮して江戸に決めたとされている。
 築城後、日枝神社をはじめ、筑土神社、平河天満宮、市谷亀ヶ岡八幡など今も残る数多くの寺社を周辺に勧請した(現在はいずれも移転)。神仏の力を借りるということもあるが、戦国時代にみられる要地に寺社を配して陣所や砦にするという狙いもあった。また、連歌会に招かれた京都の高僧らの記述からは、江戸湊での通商が盛んであったこと、道灌の江戸城が大層堅固で城下町も大変に賑わっていたことなどがうかがわれる。




道灌の戦績とその後・・・

 この頃から道灌を名乗り始め、京都の将軍家から内紛収束を命じられて駿河の今川家に出兵するが、のちに北条早雲と名乗る伊勢盛時と事態の収束策を練って合意している。しかしこの道灌の留守を狙って、今度は道灌と親戚関係にあった長尾一族の長尾景春が山内家の家宰職を得られなかったことを恨み、1476年(文明8年)に挙兵し、上杉家内部の抗争が勃発する(長尾景春の乱)。武蔵五十子(いかっこ、埼玉県本庄市)にいた上杉一族の敗走をみて道灌はすぐに兵を動かし、まず相模国の景春側の拠点を攻略して後顧の憂いを無くすと、1477年(文明9年)には景春に呼応した豊島氏の軍勢を引くと見せて迎え撃つといった策で江古田・沼袋で打ち破り、さらに本拠地石神井城も陥落させ、武蔵国南部を一気に制圧する。
 用土原(埼玉県寄居町)の戦い以後、上野(こうずけ)まで進軍した道灌を前に身動きが取れなくなった景春側をみて同盟関係にあった古河公方は和議を持ちかけている。それでも景春は抵抗していたため、道灌は敵方の有力武将である千葉孝胤を1478年(文明10年)に下総の境根原(千葉県柏市)で破った後、1480年(文明12年)に最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を攻め落とし、ついに景春は没落した。この後、古河公方成氏と上杉家との間で和議が成立し、「享徳の乱」は終わった。
 道灌の活躍で、主君である扇谷上杉家の勢力は増したが同時にその力を恐れる目も生まれることとなった。
1486年(文明18年)7月26日、扇谷上杉定正の槽屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれた道灌は、風呂に入って出て来たところを暗殺されてしまう。享年55歳。斬りつけられた際、道灌は「当方滅亡」と叫び、上杉家の没落を予言したが、その後1年も経たないうちに山内家と扇谷家は戦端を開き20年に亘る長享の乱が勃発する。その隙を突いて伊豆にいた北条早雲が関東に進出し、その後裔である北条氏康に上杉家は関東を追われてしまうのである。




東京府庁舎跡




 東京府庁舎は、当初東京市幸橋門内(現在の内幸町一丁目)の旧大和郡山藩邸に開設されその後1894年(明治27年)に丸の内(現在の有楽町駅前)に新たに建設されました。
 1898年に東京市庁舎も完成し、第二次世界大戦中の1943年に東京市東京府 が廃止され東京都が設置されましたが、この建物は戦災で焼失しました。
 1955年3月に敷地一帯が、旧跡として東京教育委員会により文化財指定されました。
 かって、東京府庁舎があったことを示すものとしては、本石碑だけが残っています。




東京駅に到着し、散歩を終了。
中央線で帰った。