2019/09/02 02 千代田通り散歩 千代田通り/第三会子ども遊び場/神田錦町三丁目

国立公文書館の後は千代田通りを通って御茶ノ水へ。



◆千代田通り






◆第三会子ども遊び場






「良い子、強い子、役立つ子」
脇には「第三会子ども遊び場」とあった。




「安田のおじいちゃんの木」
と書いてあるね。
ネットで調べるとこの場所には徳川綱吉が創建した護持院があったとのことだった。
おじいちゃんの木に関する資料は見つからなかった。




何が書いてあるかわからない・・・・。



神田錦町三丁目






 江戸時代、この界隠は武家地で、「錦小落」と呼ばれていました。一色という名の旗本の家が二軒あったことから「二色小路」、そしていつのころからか「錦」の宇に置きかわり「錦小路」となったわけです。そのほか、京都にある錦小路にあやかったとも、この地にあった護持院に、錦のように美しい虫を祀った弁財天堂があったためとも言い伝えられています。
 護持院は、もともと真言宗筑波山中禅寺知足院の別院として、紺屋町(こんやちょう)にあった寺でした。当時、住職をつとめていた陸光(りゅうこう)は、五代将軍徳川綱吉の絶大な信任をうけ、貞享(じょうきょう)年間(1684から1688)に、現在の神田錦町から一ツ橋にかけての広大な地を与えられ、さらに元禄九年(1696)には、護持院という称号が贈られています。
 ところが享保二年(1717)、大火によって護持院は跡形もなく焼けてしまいます。江戸域のすぐ北で燃えさかった火事に、幕府閣係者はよほど肝をひやしたのでしょう。護持院はここに再建することを許されず、大塚の護国寺(現・文京区)へと移されます。護持院と周辺の武家屋製の跡地は火除地(延焼防止の空き地)とされ、「護持院原」と呼ばれるようになりました。当初、将軍の鷹狩などがおこなわれていましたが、その後、散策路として町人たちにも開放きれました。
 神田錦町三丁目の町名が正式に生まれたのは、明治五年(1872)のことです。明治時代になると、この広い土地を利用して大学などの教育機関が立ち並ぶようになります。幕府の開成所の流れをくむ開成学校(のちの東京大挙)や東京外国語学校(のちの東京外国語大学)、学習院がこの地にありました。
 明治四十四年(1911)、いったん西紀町三丁目と変わりますが、昭和二十二年(1947))にはふたたび神田錦町三丁目となり、現在に至っています。





続く。