2019/10/01 03 東中野散歩 01 東中野駅/東中野ギンザ通り/青原寺/源通寺/高徳寺/龍興寺/松源寺(さる寺)

ものづくりフェアの後は東中野駅から中野駅前まで早稲田通りを通って散策。
途中業務スーパーに寄る(w





東中野駅

本日第三スタートの東中野駅




東中野ギンザ通り









◆青原寺



鐘楼



境内社



山門
山門







◆源通寺



河竹黙阿弥墓所

 江戸時代末から明治の中頃に活躍した大劇作家、河竹黙阿弥(本性吉村、二代河竹新七、(1816〜1893))の墓所が、当寺の墓地入口にあります。
 黙阿弥は、鼠小僧次郎吉を義賊にした作品をはじめ、「三人吉三(さんにんきちざ)」や「白波(しらなみ)五人男」などの盗賊を主人公とした生世話(きぜわ)狂言で、世相を写実的に描く近代演劇への道をひらきました。
 しかし、幕府が写実的傾向を禁じて勧善懲悪を奨励したため、黙阿弥は作風の転換を強いられ、その後、幕末・維新期の激動する社会のなかで、江戸時代後期の歌舞伎の創作法を整理・集大成し、「真に江戸演劇の大問屋」と坪内逍遥に評される仕事をなしとげました。
 黙阿弥の作品は、四代市川小団次をはじめとする歴代の名優によって演じられました。
 明治四十一年、当寺が移転したとき黙阿弥の墓も浅草から移されました。








◆高徳寺




 江戸中期の朱子学者。名は君美(きんみ)、通称勘解由(かげゆ)、白石は号。木下順庵に朱子学を学び、その推挙により甲府の徳川綱豊(のちの家宣)の儒臣となり、宝永6年(1709)家宣が将軍になると幕臣として、間部詮房(まなべあきふさ)とともに家宣を補佐。
正徳の冶を開き、教学と政治の一致につとめた。
武家諸法度改訂、貨幣改鋳、船舶互市新令の施行、儀式典礼の整備などはそのおもな事蹟である。享保元年(1716)引退。学者として特にすぐれた合理性と実証を重んじ、朱子学的思考と実践の結合した合理主義者であり、日本古代史に合理的解釈を試み、外国事情にも意を用いた。主著「藩幹譜(はんかんふ)」「読史余論(どくしよろん)」「西洋紀聞」「西覧異言(さいらんいげん)」「折(おり)たく柴(しば)の記」など。








龍興寺






◆松源寺(さる寺)








続く。