2019/10/10 喜多見散歩 03 庚申塚/水道道路/光伝寺/知行院/諏訪神社/陣屋7号墳/水道道路

太夫堀公園の後は、南東方向の水道道路と東名高速の交差してる所まで。



◆庚申塚




写真撮るの失敗・・・・・。
低すぎて角度を間違えた(涙



◆水道道






道道路。
この日記に後に出てくる水道道路につながっているのかな??
ちょっとわからなくなってしまった。




◆光伝寺




寶壽院(光傳寺)
 当寺は浄土宗鎮西派の寺院で、京都・知恩院直末である。
 寺を創建した西誉上人方阿玉公和尚から約80年くだった慶安二年(1649)、七世本誉上人万休竜長和尚の代に、三代将軍家光より七石二斗余の御朱印をうけ、御朱印状九通が寺宝として保存されている。
 現本堂は、十六世荘誉上人願阿意俊和尚の代、寛延三年(1750)に庫裡と共に造営されたものである。
 明治九年(1876)より同十一年まで喜多見学校の校舎として使われ、明治二十三年から同三十五年までは、喜多見尋常高等小学校高等科教場として使用されていた。しかし同年五月に、喜多見、朝陽の両校合併により
砧尋常高等小学校が設立されると、同校の中央教場として明治四十年三月まで使用された。
 当寺は玉川六阿弥陀三番札所である。

木造阿弥陀如来坐像
 本像は、長徳山宝寿院光傳寺の本尊で、像高六〇・ニセンチ、わが国の仏像彫刻で最もよく用いられた檜材を使用した、一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)の像である。
 繋髪(らはつ)を彫出し、肉警手(にくけいしゅ)・白毫(びゃくごう)(共に後補)をあらわす。当初は玉眠を入れず彫眼としていたこと、全体に浅めの彫り、流れるようによく整った衣文(えもん)などから、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての制作であることが示される。胎内には「当寺十八主、明蓮社鮮誉(みょうれんしゃせんよ)上人誾隆(ごんりゅう)和尚代文化三内寅天八月奉再興」の修理文書が納められている。玉眼の嵌入や、肉身部の彩色など、このときのものと考えられる。
 伝来については詳らかではないが、「新編武蔵国風土記稿」によれば、「開山玉公、永禄十二年(1569)ノ草創ニテ、コノ僧ハ天正六年(1578)十二月七日示寂セリ。⋯本尊阿弥陀。木ノ坐像台座共四尺五寸許、恵心ノ作ナリ」とある。恵心作の伝承は、よく附会(ふかい)される伝説であるが、穏やかな作風を示すこの像は、区内では、最古の部類に属す る仏像として、貴重なものである。
昭和五十六年四月二十二日、世田谷区有形文化財(彫刻)に指定された。






道路工事中だった。




◆知行院



社など



鐘楼





山門



門前

ちょっとふらっと寄りたくなるね(w




諏訪神社



境内社






◆陣屋7号墳

google mapのマークの位置はだいたい写真の竹林の奥になっていた。






竹林の反対方向から。




竹林の方から用水?が流れているらしい。



用水は上の橋?のところでL字に曲がっている。




◆水道道

上は東名高速

道道路と呼ばれる道路はいくつもあって、正式名称を調べようと思って調べてみたけどわからなかった。
どなたかわかるかたいらっしゃいますか?



続く。