2019/10/30 02 三ノ輪橋・浅草散歩 04 吉田吉蔵記念館/今戸神社/本龍寺/慶養寺/待乳山聖天/待乳山聖天公園/旧浅草聖天街、浅草聖天横町

まだまだ南下する。
待乳山聖天はかなり大きな寺院だが、今まで全然知らなかった・・・・。



◆吉田吉蔵記念館

吉田カバン創業者の記念館とのこと。
今回中には入らなかったので、今度また来てみようと思う。




今戸神社




 当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉(ごりょうせい)天皇の時代康平六年(1063)源頼義、義家父子は義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安汰夫安倍貞任(いぞくやすだゆうあべのさだとう)、宗任(むねとう)を討伐の折今戸の地に到り、京都 の石清水(いわしみず)八幡を鎌倉鶴ヶ岡と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。
 應神天皇の母君神功皇后(じんぐうこうごう)は新羅を始め三韓親征の際、時恰(ときあたか)も天皇を宿されその帰路天皇を九州筑紫で誕生され ました。
 従って應神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されております。
 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊御(いざなみのみこと)夫婦の神は加賀の白山比咩(しらやまひめ)神社の御祭神にして、嘉吉元年(1441)千葉介胤直(ちばのすけたねなお)が自分の城内に勧請しました。諾冉(だくねん)二神は子孫の繋栄を与えられると共に縁結びの神 と崇敬されております。 昭和十二年今戸八幡と合祀され今戸神社と改称されました。
 今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となりました。



今戸焼発祥之地/沖田総司終焉の地



今戸焼
 今戸焼とは現在の台東区今戸の地で焼かれてきた日用品の土器類・土人形類のことで、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していた。地元の今戸神社にある狛犬台座には宝暦二年(1752)に奉納した四十二名の陶工らの名が刻まれており、数多く軒を並べていたことが伺える。
 今戸焼きの起源は定かではないが、伝承では天正年間(一五七三~九一)に千葉氏の家臣が今戸辺りで焼き物を始めたとか、徳川家康入府後三河の陶工が今戸に移って来たともいわれる。「今土焼」の名としては十八世紀末頃から明らかに見られ、十八世紀前半頃に本格的な土器生産が始まったと思われる。隅田川沿岸はかつて瓦を含めた土製品の生産が盛んであったようで、瓦町の名や瓦焼が早くから知られていた。江戸時代の文献である『江戸名所図会』には瓦作りの挿絵がみられ、「隅田川長流図会」(大英博物館所蔵)には今戸焼の窯が描かれている。
 近年の江戸遺跡の調査によって施釉土器、土人形や瓦等が多く出土し、そのなかには今土焼職人の名が刻印されている土器・土人形、今戸の地名を印した瓦も見られ、隅田川沿岸の窯業との関連が注目されている。
 関東大震災東京大空襲により職人が次々に区外へ移り、現在今戸には一軒のみが残り、伝統を伝える「口入れ狐」や「招き猫」などの人形が今でも製作されている。



沖田総司終焉の地
 沖田総司は当地に居住していた御典医松本良順の治療にも拘らず、その甲斐なく当地にて没したと伝えられている。


2016/11/10 part3 多武峯内藤神社/鉛筆の碑/沖田総司逝去の地 - ovanの社会科見学
こちら内藤新宿新宿御苑の脇)に「沖田総司逝去の地」があったのを思い出した。
実際どこで亡くなったのかの真相はわからないのかな?



今戸橋開橋記念碑





招き猫

お江戸は浅草
 今戸で生まれ
  愛され続ける
    招き猫


招き猫発祥の地ということかな?
豪徳寺は??



皆様 ようこそ 奥浅草に

このオブジェはネコさんでいいのかな??




きっと福のある猫に違いない(w





◆本龍寺






◆慶養寺







待乳山聖天




 待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇九年(601)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。
 ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東部随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、
  哀れとは夕越えて行く人も見よ
        待乳の山に残す言の葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根。巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。一月七日大般若講大根祭には多くの信者で賑う。
 なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。




稲荷尊




道灌稲荷跡

 かつて当山境内には、太田道灌勧請の「道灌稲荷がまつられていた。
 文政八年(1825)、本龍院より江戸幕府に提出された「寺社書上」に、「一、稲荷社、道灌稲荷と唱候、四尺一間」と見て、また、かつて当町内の木戸には「道灌稲荷の守護」の札が貼られ、地域の人々より尊崇を受けていた由が知れる。
 人望高く、文武両道の武将として名を馳せていた太田道灌(1432~86)は、文明八年(1476)、鎌倉の詩僧を招き、隅田川に船を浮かべて詩歌管弦の宴を開いている。自らの稲荷尊は神と景勝の待乳山に浅からぬ因縁を窺うことができる。





歓喜地蔵尊




数度の火災に遭いこの尊容とどめていないが古来より子育地蔵として伝承され、霊験あらたかな尊として信仰されている。





楽殿




銅造宝篋印塔




 宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で、時代性をよく表している。基礎に刻まれた銘文から、天明元年(1781)に鋳物師西村和泉守が製作し、蔵前の札差等16名が奉納したものであることが分かる。西村和泉守は、江戸時代から大正時代にかけて、十一代にわたり鋳物師を務めた家で、本塔の作者は五代西村政平にあたると考えられる。
 銅造の宝篋印塔は全国的にも類例が少なく、特に区内では造立当初からほぼ完全な形で遺された唯一の事例である。各部の装飾は優れており、鋳物師の高い技能を知ることができる。また、蔵前の札差の奉納物としても貴重な歴史資料である。
 平成十四年(2002)に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。




築地塀




江戸時代の名残をとどめる唯一のもので貴重な文化財である。全長二十五間(45.5m)広重の錦絵にも描かれている。



天狗坂



昔時は大木がうっそうと生い茂り、坂を下りたところに竹屋の渡しがあった
      天狗坂 夕木枯の
       おもいでに
          久保田万太郎   



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天狗坂脇のエレベーター。
良く見ると「スロープカー」と書いてある。
どう動くんだろう?


庭園




庭園坂上からはスカイツリーが見える。




庭園内境内社(?)








待乳山聖天公園






待乳山聖天隅田川
江戸時代の待乳山聖天のかいわいは、こんな楽しそうな町並でした。
聖天さまから見た隅田川の眺めがすばらしく、多くの画人たちが描くほどの眺望の名所でありました。








◆旧浅草聖天街、浅草聖天横町待乳山聖天

 本町の起立年代は不祥である。寛文図に「聖天丁」と記載があるので、かなり古く開かれ た町である。町名は町内に待乳山聖天宮があるのにちなんだ。聖天宮の正式な名称は本龍 院といい、聖天宮は聖天を安置していることによる。金麗山あるいは待乳山と号し、浅草寺の子院である。
 待乳山隅田川西側の小丘で、江戸時代から文人墨客に愛された景勝の地であった。聖天宮はこの待乳山の上にある。 「浅草聖天町」昭和二十三年(1948)に浅草山川町、同金龍山下瓦町、同山ノ宿町の北隅を合して誕生した。
 「浅草聖天横町」浅草聖天町の西側続地であり、町の地形から横町とつけられた。起立年代はわからないが浅草聖天町よりやや遅れてできたのであろう明治五年(1872)、浅草寺子院の遍照院を合併して町域を広げた。





続く。