同年9月12日に外観だけ見学して帰った邸宅。
今回は中へ!
2F 寝室
バラの壁紙は輸入品で、進駐軍(GHQ)に接収されていた時期に貼られたといわれているとのこと。
外の説明板
旧山田家住宅は、昭和十二年(1937年)頃に建てられました。施主は楢崎定吉といい、米国で事業を成功させた実業家で帰国後にアメリカ風住宅の影響を受けてこの住宅を建設したと伝えられていますが、それ以外の詳しいことはわかりません。終戦後は一時進駐軍(GHQ)に接収されたようです。
昭和三十六年(1961)には、画家で「南画院(なんがいん)」(現特定非営利活動法人南画院)の代表者として活躍した山田盛隆(雅号・耕両)が購入し住まいとしました。
建物は洋風で、褐色のフランス瓦葺きの屋根に、クリーム色のリシン仕上げの外壁で下部には石張りを施しています。各室は機能ごとに分けられた独立性の高い洋風住宅の特徴をもち、洋室を中心にした和洋折衷の間取りをしています。一回はなかろうかの南側に玄関と寄り付きの広間、客間、ベランダのある居間と食堂、北側には水回りと女中室が配されます。2階は家族の寝室と客間、床構えのある和室、納戸などが配されます。
この住宅の特徴は、各洋室や廊下はそれぞれ模様を変えた寄木張りとした凝った仕様にしている点や、窓は統一した意匠の上げ下げ窓を多用している点があげられます。この他、ランドリーシュートを設ける工夫など、施主の生活文化に対する意識が反映されており、当時成城に住んだ人の生活の様子が伺えます。山田家の住まいとなってから半世紀以上の間、水回りを除きほとんど改築されず、全体的にはほぼ当初の設計意図が維持されています。平成二十八年度の改築工事では山田氏が購入した昭和三十六年の姿を保存することにしました。
床がほとんど寄木のフローリングだった。
この壁かざりほ、昭和7年(1932年)に世由谷区成城2丁目に建てられた近代住宅の食堂で使われていた床材を組み合わせ、近代建築保全ボランティアで作ったものです。
この住宅は平成14年(2002年)に取り壊され、今はありませんが、一枚一枚の寄木を張り合わせる職人の苦労が偲ばれます。
幕末から昭和20年に建てられたこれらの近代建物は、西洋建築の影響を受けて建てられてものが多く、特に近代住宅の洋間では、様々な寄木を使った床が張られました。
旧山田邸にも、さまざまな寄木を使った床がありますので、比べてみてください。
床の寄木張り
各部屋で使われている寄木張りです。良く見ると部屋によってデザインを変えていて、廊下も寄木で飾っています。
寄木は木の種類による色の違いや、木目の違いを巧みに組み合わせて模様を作っています。小さな木片を丁寧に組み合わせて作るため手間がかかります。これだけの種類の寄木張りを使う例はこの種類の住宅では珍しく、この住宅の特徴にもなっています。
寄木張りに着目して館内を見学するも楽しいのではないでしょうか。
山田盛隆氏
大正10年(1921)〜平成24年(2012年)
旧山田家住宅の所有者であった画家の山田盛隆氏は、東京で日本画を学び、画家の降旗篁岳の元に師事しました。また、日本画以外には、写生画や書についても熱心に学びました。
盛隆氏は雅号を耕雨といい、この住宅で南画の制作に励みました。南画は中国の元、明、清の絵画の影響を受け、江戸時代中期以降におこった日本画の一派で、水墨や淡彩の柔らかな画風が特徴です。この住宅で、盛隆氏は多くの弟子を抱え、指導にあたるとともに、多くの作品を残されました。
かつて盛隆氏は、西側のみつ池緑地の一部と北側の隣地を含めた広大な敷地を有していました。その敷地の中でも、みつ池よりの西側斜面に別棟を建て、そこをアトリェとして利用していました。しかし、その後、この別棟のアトリエは取り壊され、自宅1階の客間にアトリエは移されました。
盛隆氏は「南画院」(現特定非営利活動法人南画院)の代表となり、南画や東洋水墨画の普及のために活躍しましたが、平成24年(2012)に91歳で他界しました。
前回外観だけを見学した時の日記。
2019/09/12 成城散歩 01 旧山田家住宅/成城みつ池緑地/樫尾俊雄発明記念館/成城四丁目緑地/清稲荷神社 - ovanの社会科見学