2019/12/05 01 砧散歩 04 町田橋/永安寺/河原水車跡/鎌田天神社/吉祥院/水車橋/天神森橋

町田橋で野川を渡り、東へ進む。
水車跡が二つあるが二つを結んだところは昔の水路だろう。
吉祥院からは南西方向に進み、天神守橋でまた野川を渡る。
地図を見ると少し南に行ったところで野川と仙川の合流する。



◆町田橋







◆永安寺




 本寺の開山は清仙上人といい、本尊は千手観音で恵心僧都の作と伝えられる。この寺は鎌倉大蔵谷にあった鎌倉公方足利氏满開基の永安寺にちなんで延徳二年(1490)この地に建てられたという。
 不動堂には本尊の外に石体薬師仏が安置されている。本堂の側には江戸幕府書物奉行石井至穀の墓、国学者屋代弘賢の墓誌があり、境内の大いちょうは樹齢数百年と云われる。



不動堂(旧薬師堂)



 不動堂は旧薬師堂の蹟に建立しまLた。当山開創六百年、再興五百年記念事業の開山堂長春殿建立に伴い、西方約三mから移動Lました。
 本尊様は不動明王樣です。お不動樣は火焔をもって私達のあらゆる|障害を焼き浄めてくれます。当山では正月に元旦護摩を執行Lて皆樣の一年間の息災を祈願します。不動三尊(不動明王矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制咤迦童子(せいたかどうじ))樣式です。
 慈恵大師(じえいだいし)画像をお不動様の隣に安置しています。慈恵大師は「元三大師」「豆大師」「角大師」とよばれ、観音樣、お不動様の化身で「魔除けの大師」ともいわれています。霊験の大变深いお大師樣です。


開山堂長春殿




 「開山堂長春殿」は本堂、不動堂、山門、そして2本の大イチョウと周辺の樹木など、歴史と自然に恵まれた環境にふさわしい、伝統的な
木造建築です。
 ご本尊様は十一面観世音菩薩様です。
 当山開創六百年、再興五百年記念事業の一環として檀信徒の寄進により、梅林の跡地に建立しました。
 江戸時代にはこの場所に「観音堂」が建立されていて、十一面観世音様がおまつりされていたと伝えられています。
 永安寺は天台宗ですが、創建当初は臨済宗(禅宗)で鎌倉にあり、第二代鎌倉公方足利氏満公の菩提寺として、曇芳周鷹(どんぽしゅうおう)大和尚の開山になる寺院です。それにちなみ、聞開山堂の屋根には足利氏の紋が入っています。また開山堂正面入口上の虹梁(こうりょう)は、禅宗様式で作られています。
 軒先の丸い瓦には、天台宗総本山比叡山延暦寺より正式に許可された延暦寺紋「菊輪宝(きくりんぽう)」紋が使われています。
 開山堂内部は椅子式でいろいろな仏事に利用し易くなって おり、長春殿には大広間があります。
 「長春殿」は、永安寺が応永五(一三九八)年に鎌倉に建立された時の院号長春院」にちなんだものです。
 延徳二(1490)年この地に清仙上人により再建されました。鎌倉の故地にあった「龍華樹(りゅうげじゅ)」と名付けられていた桜樹を、清仙上人は
鎌倉より移植して堂前に植えたといわれています。これにちなんで「龍華山」を山号としました。
 戦国時代末期の天正年間に当山第六世良深和尚の時、天台宗に 改宗し院号を現在の「長寿院」にしました。



龍華樹(りゅうげじゅ)



 日本名 サクラフゲンゾウ(普賢象)  別名フゲンドウ(普賢堂)
 室町時代からあったサクラといわれている八重桜です。4月中旬に、はじめは淡紅色からのちにほとんど白色になり、花部分だけが垂れて咲きます。
 普賢象は普賢著薩の乗っている象です。葉化した「めしべ」がこの象の鼻や牙に似ていることから、この名がついたといわれています。
 室町時代、当山が第二代鎌倉公方の菩堤寺として鎌倉にあった頃、当山山号の由来となった「龍華樹」と呼ばれた桜の銘木が、本堂前にありました。
 約500年前、永安寺が鎌倉からこの地に再建されました。その折り、当時の村人が鎌倉の永安寺跡地に行って、その桜樹を本堂前に移植したと伝えられています。その後、幾たびか同種の桜樹が植え替えられていました。
 平成12年本堂大改修にあたり砧農園様のご尽力により、老木となった先代の桜樹と同種の桜を探して植え替えたものです。
 室町時代より平成時代、鎌倉から世田谷の地と、時代や場所が代わっても、当寺の歩みと共に永安寺の境内に咲き続く当山「山号」の基である、この桜の木を「龍華樹」と呼んでいます。





その他説明板


龍華山長寿院 永安寺の本堂

寛保二年(一七四二年)江戸時代中期建立

「本堂の歴史」
 第十四世随道大和尚により建立されました。
 昭和三十五年に大改修工事が行われ、江戸時代の姿をとどめた茅葺屋根が平瓦葺に直され、小屋組、基礎や柱脚部も補強されました。当山開創六百年再興五百年記念事業として檀信徒の寄進により、平成十二年に再度の大修復工事を行い、現在の伽藍になりました。
 本堂前の左右の鬼瓦 の置物は、昭和三十五年から今回の修復まで本堂の屋根の鬼瓦として使われていたものです。

「本堂内部の特色」
 天台宗本堂としての特長が、内陣の来迎柱(らいごうばしら)や、内陣と外陣(げじん)境の大虹梁(だいこうりょう)に良く表われています。
 平面形式での大きな特色は、柱と柱の間を一間六尺(約1.82m)ではなく、二間半十五尺(約4.55m)の半分の7.5尺を採用しているために、とても伸びやかで
明るい空間になっています。

「平成の大修復工事」
「内陣*屋根」
 内陣は漆と金箔によって荘厳し、ご本尊様と須弥壇、宮殿、仏具類の修復をしました。
 小屋組をやり直し、軒先を補強することで、軒の反りや屋根の線を直して本格的な本瓦で葺き替えました。 この瓦は最も伝統のある奈良製で、軒先の丸い瓦には、天台宗総本山比較叡山延暦寺よ り正式に許可された延暦寺紋「菊輪宝」紋が使われています。そして各棟には鬼瓦が備えられて、格式の高い屋根となりました。

「軒唐破風。浜縁· 建具等」
 正面の向拝(ごはい)は、軒唐破風(のきからはふ)という珍しい形で、永安寺本堂の大きな特色となっていますが、銅板も葺き直し、形も整備しました。外部に面する建具は、天台宗にふさわしい形式に作り直し、建物の回りの決縁と高欄も新しくされ、建物の建つ基壇と、その周囲の雨落溝と境内の敷石も整備しました。


永安寺本堂の仏様

本尊 千手千眼観世音菩薩様
 ご本尊·千手千眼観世音菩薩様は、比叡山で今から約千年程前に「往生要集」を著した恵心僧都作と伝えられています。
 秘仏でしたが、開創六百年、再興五百年記念祭を機にご開帳をしました。お前立は鎌倉時代の作と伝えられております。
 千の慈悲の手、千の慈悲の眼をそなえて私達衆生を救済することから、大慈悲観音とも呼ばれています。千手というのは、観音菩薩の救済の及ぶ範囲が広大でその方法が無量であることの象徴です。
 疑いをもたず、ただ一心に「南無観世音菩薩」と観音さまのみ名をお称えすれば、私達の苦しみ悩みに応じて、さまざまな姿に変えて観音様は救ってくれます。永安寺 のご本尊の千手千眼観音様は、はかり知れないほどの大きな功徳で私達を導いてくれます。
 不動明王様と毘沙門 天様が脇侍仏です。

秘仏薬師如来
 石薬師様(秘仏、年代不詳)はお参りするとたちどころに病が治るといわれております。霊験がいちじるしかったので、江戸時代には人々は恐れて境内に埋めてしまったそうです。現在は本堂におまつりしています。

本堂の諸仏様
 本堂にはそのほかに薬師如来様、阿弥陀如来様、大日如来様、地蔵菩薩様、聖観音様、弁財天様、弁財天十五童子様等の仏様が安置されております。
不空絹索観音様、

永安寺の 六観音
 六観音様は私連のこの世の苦を救ってくださり、来世にあっては浄土に往生させていただけます。
 天台宗六観音は、聖観音様、千手千眼観世音菩薩様、馬頭観世音菩薩様、十一面観世音菩薩様、不空絹索観世音菩薩様、如意輪観世音菩薩様です。また、准胝観世音菩薩様を加えて七観音ともいいます。

 永安寺には六観音様を次のお堂や場所におまつりしてあります。

聖観世音菩薩様(本堂及び墓地入り口の供養塔)
千手千眼 観世 音菩薩様(本堂)
不空覇索観世 音菩薩様(本堂)
十一面観世音菩 薩様 (開山堂長春殿)
如意輪観世音菩薩様(七宝塔早雲)
馬頭観世音菩薩様(山門前及び基参道途中右手)
准低観世音菩薩様 (墓地内歴代住職旧 跡。七観音になります)




山門



 造立当初の屋根は茅葺でした。現在の場所から約五m程、本堂に近い位置にありました。
 昭和三十五(1960) 年に、屋根を瓦葺に改修して現在地に移動LまLた。



山門前の石塔群







◆河原水車跡

おそらく酒屋さんの辺りかと思われる。






暗渠サインだね。
酒屋さん向かって右側に暗渠に沿って歩くと水車橋(水野水車跡)に着くと思う。




◆鎌田天神社



神明社



境内社






吉祥院




 縁起によると当寺は天平十二年(740)行基の開基と伝え、同人の作による地蔵菩薩立像を安置し、東覚山と称していた。本尊は不動明王坐像で、開山良弁僧正の作と伝えられている。建武二年(1335)、兵乱により堂宇などが焼失し、その後は世田谷吉良氏が当寺を再興するが、天正十八年(1590)主君北条氏の没落と共に滅び、以降は無住となった。近世後期、周辺の村人によって伽藍などが建てられ、現在の配置となる。また、当寺は玉川霊場第六十一番札所である。


鐘楼



「?」

亀でいいのかな?
かなり大きな亀さん。



山門




◆水車橋

この道路向かって左右に暗渠があるね。
google mapには水野水車跡とある。










◆天神森橋





天神森橋の由来

 この野川は国分寺の恋ヶ窪の湧水を源流とし、国分寺崖線に沿って二子玉川多摩川に注ぐ全長約22kmの川である。
 当初の橋は、昭和36年3月に完成し、その頃の鎌田周辺は水田や畑に恵まれ、西側には宇奈根川、東側の堀川には、洗い場や水車小屋があった。近くの鎌田天神社はスギ・ケヤキなどの木立で囲われた森となっていたので、この橋の名前を「天神森橋」と名付けられた。



まさかここで「恋ヶ窪」が出てくるとは思わなかったが、野川の源流は見に行ったことがある。
両方とも国分寺で、日立研究所と、姿見の池。


日立研究所庭園一般公開
2013/11/17 日立研究所庭園一般公開と高円寺氷川神社 - ovanの社会科見学

2017/11/19 日立研究所庭園開放・高円寺駅前イルミネーション - ovanの社会科見学


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2017/11/05 02 国分寺散歩 03 名前のわからない祠/姿見の池/武蔵国分寺陸橋/都立武蔵国分寺公園 - ovanの社会科見学





続く。