2019/12/09 砧散歩2 04 大蔵氷川神社/水神社/西谷戸橋/第六天社/氷川橋/岡本西公園/庚申橋

いつの間にか仙川のすぐ西側に水路があった。
google mapに川の名前が書いてないのでわからないが、その水路付近を散策した後は北西方向へ進む。



◆大蔵氷川神社



暦仁元年(11三八)に江戸氏が埼玉県大宮市の氷川明神を勧請したものと伝える。もと大蔵町の永安寺が別当であった。永禄八年(1565)の棟札には「武
蔵国荏原郡石井土郷大臓村氷川大明神第四ノ宮」と記されていた。
明暦二年(1656)に再建され、文政(1818~30)の初めにも本殿および拝殿が再建された。



境内社



境内社


境内社


世田谷区指定有形文化財(絵画)
板絵着色 大蔵氷川神社奉納絵図

 奉納絵図は、画面の下方を六郷用水(次大夫堀)が流れ、中央やや右よりに氷川神社社殿、その前面に幟(のぼり)と二基の鳥居、画面左横には永安寺本堂や庫裏、観音堂の姿が描かれている。
 さらに、鳥居に向かって右横に堀で囲まれた草葺の農家と土蔵が描かれているが、これが大蔵村名主を勤めた安藤家の屋敷である。
 六郷用水流域には、川で洗い物をする婦人の姿や、子供をつれた村人らが描かれ、のどかな田園風景が描写されている。
 絵図背面の木地 には、寄進者二十九人の名と、明治七年十一月三日の年紀が墨書され、幕末から明治時代初年頃の情景を描いたものと推定できる。
 長期間社殿に懸けられていたため、彩色の剥落が甚だしいが、墨線は良く残り、また胡粉·群青·緑青·茶などの顔料が幾分認められ、当初はかなり鮮やかであったことが窺える。
 絵図の作者はわからないが、描写は専門の絵師の筆とは見えない。いわゆる民画風の素朴な筆法で描かれ、たくましい墨線が随所に残る明治時代初期の民間風俗画の典型を示す。大蔵村民が寄進したためもあって、画題に豊かな現実感があり、昔日の大蔵本村一帯の地勢を窺わしめるものとしてもまた貴重な資料である。



世田谷区指定有形文化財(建造物)
大蔵氷川神社本殿並びに棟札

 現存する最も古い年紀のある棟札は、何の目的で奉納されたのかは不明であるが、明暦二年(1656)のもので、これを含めて十一枚の棟札があり、うち社殿造営に関するもの四枚、鳥居に関するもの四枚、その他奉納金や上棟祭などに関するものが三枚となっている。
 社殿造営に関しては、延宝三年(1675)、元禄六年(1693)にそれぞれ「氷川大明神社頭一宇」と記された棟札が一枚ずつあり、 その後、文政三年(1830)の幣殿建立と、同七年(1824)の本殿再建の棟札がある。幣殿は現存していないが、現在の本殿はこの文政七年再建のもので、昭和六十三年に再建された社殿の中に納められている。
 社殿の造営関係の棟札の他に、鳥居の造立やその他の奉納に関する奉納札がある。うち一枚は木製の鳥居の造営と修復について、他二枚は寛政七年(1795)の石華表(石島居)と石灯龍、湯立釜の奉納札、文化ハ年(1811)の石華表とその額、石灯範の奉納札である。
 その他にも文化八年(1811)には奉納金として三両三分が納められ、その金子を元に土地を買払い求めていることが記された奉納札などが残されており、これらの一連の棟札は、社股の造営のみならず、村社としての水川神社の変遷や当時の庶民の信仰を知ることができる貴重な史料である。
 本殿は、一間社流造の様式を持ち、屋根は柿葺、総欅(けやき)造りである。正面に向拝が配され、 その下には木階五級が付けられる。木階下には浜縁(はまえん)が三面に廻り、身舎(もや)の四周には幅2尺の大床が付く。装飾は白木造りで、龍の丸彫をはじめ、鮎や賢人の浮彫、能彫(かごぼり)が施されており、社殿に華美な彫刻を施すという、時代的特徴を良くあらわした建物である。
 棟札により、建築年代のほか、上平間村(現川崎市)の大工渡辺喜右衛門源棟暁が造営にあたり、彫刻は渡辺徳次郎源棟績により行われたことが判る。
 このように本殿は、江戸時代後期の時代的特徴を良くあらわし、一連の棟札は社殿の造営や神社の変遷などを知るうえで貴重である。



階段



鳥居




◆水神社





◆西谷戸









◆第六天社



google mapだと上の写真の向こう側らしい。
完全に人様の敷地なので確認できなかった。



◆氷川橋






◆岡本西公園





google mapだと愛宕社跡となっている場所付近。




◆庚申橋





橋名の由来は奥に見える庚申塔(鳥居の奥)であろう。





続く。