2020/02/15 世田谷野沢散歩 03 庚申塔・馬頭観音他民間信仰石塔/神社/南原公園/駒沢陸橋/呑川柿の木坂/柿の木坂昭和会/府立高等学校と東京都立大学の門跡

ここでもほぼ南下。
少し勾配があり、高級住宅が並ぶエリアだった。



庚申塔馬頭観音民間信仰石塔





明治初年の農村工業としては水力を利用しての精米製粉は農村の人々にとって欠くべからざるもので有る事は言ふまでもない。
 明治十四年五月荏原郡野沢村字東丸二百三番地の品川用水に面していて水車許可の出願をした。三百米上流に堰を作って分水し、高いところを流し落差をつけ、水輪の上から水を落とす方式にした。
 家造り「カヤ」屋根水輪直径一丈六尺杵ニ十本碓6個こうした手続きにより許可になり、明治十六年に完成一年間の製造量は次の通り、米1920石麦1850石、粉480石、野沢水車は荏原郡最大のもので有りました。その後大正三年八月二十日、大雷雨の時落雷し、永城址其の後復原開業し野沢水車の水輪への通水を分離するところに馬引沢水神が祭祀されていた。俗に「ドンドン水神」ともいわれた。品川用水の前身である戸越用水は寛文二年に着工、二年間を要して同四年に完成した。期待のもので通水したところ、今の野沢三丁目八番付近っまで流れてきたものが、急に地下に吸い込まれてしまったので、ここに水神を祀り馬引水神と名付けて流水の祈念をし、地表から10メートルも深く掘り下げたところ、水は大きな音を立てて流れ出た、いつとはなくこの付近を馬引ドンドンといい、その水神を「ドンドン水神」と呼ぶようになった。
 徳川時代の末期に戸塚家という旗本の下屋敷が水神の近くにあったので、その戸塚家の管理していたが戸塚家は他に引っ越し、水神の社が腐朽したので高橋貞左衛門氏が、その魂を預かっていた。明治十六年四月に野沢水車が完成したので、水車の出願者の谷岡、秋山両氏と、車業経営の森、根岸、清水氏らが、協議のうえ、馬引沢水神を野沢水神の守護神として祭祀された。
 水車の守護神の実に野沢山正徳寺という日蓮宗の祈願所があるそれは野沢水車の土蔵を建設中に地下からたくさんの人骨が発掘され水車の土蔵を建設中に七体の人骨が発掘されこのままにしておいてはならないと根岸幸三郎氏が心有る同心の人とはかり東京九段に住んでいた日蓮宗の高僧を招き、大供養をした。その構想のことばによれば、七体の人の骨は相当名のある武士骨に相違ないとのこと。安霊を祈り守護をたまわらんとして「南無妙法蓮華経」の題目を七万写経し、そのうち三万を水車の棟木に三万を正徳寺の内に一万を品川用水に流して施餓鬼せよとのことばに従って、森五郎吉、清水兼吉、根岸幸三郎、森ヨシの四氏で仮の堂に納め、其の後に根岸吉雄氏の建立した正徳寺本堂の実に三万の写経された題目で納蔵されている。昭和四十三年三月一日関信者立会のもとで開箱したところ右のようなことがわかり箱の内裏に「明治三十六年八月」と記されていた。

 私は昭和初期この地で生れ育ちました。その頃には水車の蔵も有り石臼歯車がなども見かけました。水車の立ってた場所は今のマンションの東側のように聞いています。現在の水神様の入り口の大きい「カシ」の木の前に分水路が有ってそこから桶で水輪の方へ水が流れていたようで、上流300米の所より分水したようで品川用水の方を下の川、分水路の方を上(うえ)の川といってました。私が子供の頃は水がきれいで目高、川えび、ふな、小魚も泳ぎ夏にはホタルも居ました。カブト虫、トンボ、セミなども沢山とれ、小鳥もさえづり、此の水神の森は本当に蒼木も沢山有り川の両側には「ケヤキ」の二十米くらいの大木も茂り農家の人々の憩いの場所とも言えました。

根岸一彦




野沢水車で使用した石臼は野沢水神の階段の右にあるのがその当時使ったものの一部でだいぶ歯車がへって居るのがよくわかります。歯車は木製です。私の家には昔のその当時使用した枡も有りますからいつでもお見せ致します。昔のままあるのは、正徳寺左側の大樹の「カシ」の大木、「けやき」の木ぐらいが残っています「カシ」の木は其の当時風除に植えたものと聞いています。
ここの水神様は世田谷区の下馬史跡になって居ます。





場所がわかりづらい。
このバス停がある近く。



◆神社

google mapに載っていなかった。
何の神社なのかはわからなかった。
すぐ脇が高圧鉄塔だった。




◆南原公園



◆駒沢陸橋

上は環七。







呑川柿の木坂






◆柿の木坂昭和会






◆府立高等学校と東京都立大学の門跡

府立高等学校と東京都立大学の門跡
同窓の想いをこめ、歴史のあかしとして
これを残す。

府立高等学校の沿革
1929年 尋常科4年高等科3年の7年制高等学校として府立ー中内に開校。
1932年 新校舍竣工、この地に移転。
1943年 校名を都立高等学校に変更。
1950年 学制改革により閉校。

東京都立大学の沿革
1949年 都立高等学校と都立の5専門学校を母体に総合大学とし、創立。この地と品川の都立工業専門学校において開校。
1958年 深沢新校舍に理学部移転。
1961年 深沢に工学部移転。
1991年 八王子市南大沢に新キャンパス完成、全学移転。









 1999年に府立高等学校は創立70周年を、東京都立大学は創立40周年を迎えた。
 これを記念して、良好発祥の地が未来永劫に燦燦(さんさん)と輝くことを希いこれを建立する。



近くの東急「都立大学」駅の駅名の由来はここだったんだねぇ。
首都大学東京になって移転、現在はまた「東京都立大学」に名前が変わっている。






続く。