◆阿弥陀如来尊庚申尊
正平七年二月十五日(1352)足利尊氏追討のため宗良親王を奉じ挙兵した新田義興公に祭神らも従って人見原(府中市)金井原(小金井市)小手指原、高麗原(埼玉県)で戦い遂に鎌倉を占領、一時は東国八州を治めた。世にこの戦を武蔵野合戦と云う。
正平十三年(1358)四月二十日足利尊氏の死により足利基氏は新田義興公の勢力を恐れ北武蔵の安定化のため義興公の謀殺を図った。足利幕府執事の畠山国清は、武蔵野合戦で義興公に従った竹沢右京亮、江戸遠江守、江戸下野守と奸計をめぐらし、それぞれの所領没収の罪科に処されたと偽称せしめ義興公に救援挙兵を求めさせた。義興公はこの謀略にかかり竹沢・江戸らと合流して足利基氏・畠山国清を討つべく正平十三年十月十日その支族および近習の将兵十数名とひそかに鎌倉に向うため多摩河矢口の渡し舟に乗った。江戸遠江戸守らは予めこの舟に穴をあけていたため、義興公らは河中において進退谷まり遂に壮烈な自刃或は渡岸し江戸・竹沢の軍勢と奮戦したが悉く憤死した。(矢口渡・津の戦)
その後、祭神らの忠烈を崇め村老らが墳墓を築き社祠を興し一社の神として合祀して十騎神社と名付け南朝につくした功績を称讃した。
縁由の古墳
新田柙社(大田区矢口) 新田左中将義貞公の二男新田義興公を祀る
愛宕神社 ( 埼玉県入閒市)蔡神は天照大神ほか二神と新田義興公、元は新田大明神と称していた。足利基氏が義興公および祭神将兵らの首実見を行った地と伝えられ社殿前に義興公首塚がある、また古老によると附近高台に十騎士の首塚もあったと伝えられているも宅地化により現存していない。
女塚祠社 (大田区西蒲田)義典公の意婭少捋の局を祀る
三体地蔵 (大旧区下丸手)土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市川五郎と祀る多摩川兵庫島(世田谷区玉川町三の一)由良兵庫助の憤死体が流着した
処に由って名付けられた。
光明寺(大田区鵜の木) 江戸遠江守および一続の墓碑あり
頓兵衛地蕊 (大田区下丸子)謀殺に加担した船願頓兵衛が義興公、十騎士らの冥福を祈り建立したもので、風化しているので「とろけ地蔵」とも云われている。
◆東八幡神社
続く。