2020/04/04 大井散歩 02 坂本龍馬の壁画/寶組勝島F棟倉庫/しながわ花街道/浜川砲台跡/火伏稲荷神社/京急高架/土佐藩下屋敷跡

京急の高架をくぐるってから西に向かって進んでいく。



坂本龍馬の壁画



google mapには「坂本龍馬の壁画」とあった。
この建物を調べると、「下水道局浜川ポンプ所」とある。




◆寶組勝島F棟倉庫

勝島運河向う側に建っている目立つビル。
あちら側も桜が綺麗だ。



◆しながわ花街道






早咲きの桜が葉桜になっていた。
ここは早咲きなのを忘れてた・・・・・。




◆浜川砲台跡(浜川公園内)




洪川砲台の大砲
幕末史研究家 小美濃 清明
 嘉永六年(1853)六月、アメリカ合衆国はペリー提督の率いる四捜の艦隊を日本に派遣して、開国を迫った。国書を幕府に渡すと、来春、再来航するとしてペリーは去った。
 日本側は、次回は戦争になると想定して、江戸湾の防備に力を
入れることになる。
 土佐藩はここに鮫洲抱屋敷を持っていたので、砲台を造ることを幕府に願い出た。
 嘉永七年(1854)一月、ペリー艦隊が再来航した時、急遠、土佐藩が造ったのが、浜川砲台である。

 六貫目ホーイッスル砲  一門(復元)
 一貫目ホーイッスル砲  二門
 鉄製五貫目砲      五門

 計八門を配備した砲台だった。ここに復元したのは六貫目ホーイッスル砲である。
 実物のない他藩では丸太を大砲らしく見せた偽物もあった中で土佐藩の装備は江戸っ子の評判も上々で、次のような狂歌も作られている。

  品川の固めの出しのよくきくは
     下地もうまく  なれし土佐武士

 [品川の固め場(守備陣地)の良く効果的であったのは準備もうまい熟練の土佐のサムライだからだ〕

 これは土佐の鰹節にかけた狂歌で堅目のダシの良く効くは、料理の下ごしらえも、上手くできる土佐ぶし(鰹節)だからだという意味である。
 この浜川砲台に佐久間象山塾で大砲操練を学んだニ十歳の坂本龍馬がいたのである。









◆火伏稲荷神社






京急高架

かなり高いところを走っているんだね・・・。




土佐藩下屋敷



旧土佐高知藩山内家下屋敷
 立会川沿いの高知藩山内家の下屋敷1万6千8百坪余と抱(かかえ)屋敷(揚場869坪)は、東海道往還を挟んで東西に位置し、抱屋敷は河口に位置していた。ともに万治元年(1658)に拝領、囲込によって取得したもので、表門通りで結ばれていた。下屋敷は大井村の他に、木挽町築地(現中央区築地)にもあった。
 第15代藩主山内豊信(とよしげ)(容堂)は、松平慶永(よしなが)、島津斉彬(なりあきら)、伊達宗城(むねなり)らとともに、国政の方向について論議建策したので、「幕末の四賢侯」と称されている。安政の大獄に関連して隠居・謹慎を命せぜられ、蟄居したのがこの下屋敷であった。また、河口の抱屋敷の地には、嘉永6年(1853)に砲台が造られ、浜川砲台と呼ばれていた。
 安政2年(1855) 頃の高知藩主山内土佐守豊信は24万2千石の家禄があり、上屋敷は鍛冶橋御門内大名小路(現千代田区丸の内)にあった。
※上記大名屋敷の所有関係は、安政3年頃のもの





続く。