2020/04/04 大井散歩 03 ヘルマン坂/大福生寺/JR 関道地下道/大井中央病院/作守稲荷神社/稲荷神社/伊藤博文別邸跡

どんどん西へ向かって歩いていく。



◆ヘルマン坂

説明板などは無かったのでWEBで調べてみた。

『 立会川の月見橋近くに位置し、東大井の閑静な住宅街を南北に走っている見晴らし通りにある坂です。
 戦前、ドイツ人のヘルマン・スプリット・ゲルベルト氏が、この坂の途中(東大井六丁目側)に居住していたことから、いつの間にかこう呼ばれるようになりました。』
ヘルマン坂|品川区







山内豊信(容堂)の墓
 明治維新達成のために活躍した第15代土佐藩山内豊信の墓。容堂と号する。明治5年(1872)に46才で急逝。 遺言で当地に葬られた。

史三ッ文地蔵
 古道の分岐点に当たるこの地に、 昔十一面観音を祀った堂があったという。 また庚申堂付近から出土した地蔵を祀ったともいわれる。

庚申堂
 古くは庚申塚、納経塚とも呼はれ、来福寺本尊の延命地蔵がここから出土したと伝えられる。堂内に石造の庚申供養塔4基がある。

梶原稲荷神社
 満福寺境内にあったが、 寺が移転したので来福寺境内に移った。この付近は梶原氏ゆかりの地と伝えられる。 現在崇敬者団体が管理。

嶺雲(れいうん)寺(曹洞宗)
 慶長9年(1604)の創建。南品川、天龍寺の末寺。境内の右手に延宝 8 年(1680)造立の「石造閻魔王坐像」 が安置されている。

来福寺(真言宗)
 正暦(しょうりゃく)元年(990)に創建。大井1丁目、庚申堂付近から出土した延命経読地蔵が本尊。戦災を免れた山門・聖天(しょうてん)堂は、築後140年。

福生寺(天台宗)
 上野寬永寺の末寺で明治12年(1893) に日本橋から移転してきた。 大井の聖天様と呼ばれる。本尊は十一面観音と 歓喜天(聖天 秘仏)。

西光寺(净土真宗)
 弘安9年(1286) 創建と伝えられている。江戸の頃は桜の名所。境内には、かつて倉田地蔵堂から移された3基の石造供養塔がある。




◆大福生



寺の歴史
当山は天台宗に属し、比叡山延暦寺を総本山とする。
品川区大井関ヶ原町一三O11番地、俗称土佐山(松平土佐守下屋敷所在)に在る所より土佐山聖天、又は大井聖天と俗称す。
当山は東叡山實観大僧正の 法裔、宇賀神實海和尚の関基にて同師、明治十四年日本橋蛎殼町(水天宮の近所)に一寺を建立し、三寶山神護院大福生寺と称す。同十九年六月に堂宇の落慶を見、その後、同二十四年当地に 移転され、今日に至る。

本地仏の歴史
本尊十一面観音(立像三尺六寸八分)大聖歓喜天(五寸五分の金像)の二尊を安置す 歓喜天は慈覚大師入唐将来の尊像にして京都盧山寺に秘蔵せられ しを享保年間、妙法院門跡、圓恕大僧正護持となり、明治十年同門跡、藤本道盈師より当寺開山宇賀神實海和尚が懇願され将来せられしもの也。又十一面観音は聖徳太子の御作にして徳川三代将軍家光公の信仰厚く、牛込矢来の長安寺に安置せらるが明治雜新廃仏毀釋の際、實海和尚之を受けて当山の本地仏として奉安せり。
特に大聖歓喜天は現在まで歴代の住職によって永年、日々祈願されし本尊である。



護摩




福生稲荷大明神





福生宇賀神王



寶性地蔵菩薩



由来
此の地蔵菩薩は釈 迦如来の滅後如来の附属を受け弥勒菩蓬の出生まで六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅 、人間、天上界)の衆生を教化する大悲の
善薩であります。

緑起
当山の篤信者、新村円子氏が兼ねて指事と助言を仰いでいた霊能者、芝西応寺町の石川恵照先生の道場で御修行中高德の先祖霊が出現せられて
告げられるには地敵普薩を造り小高き処で八重桜の美しい祈願寺の地で沢山往来(あまたゆきき)の人々に慈悲利生を施し吾人の罪障消滅開堰招福、求子安產、身体健康等に徳顕ありと此の尊像を祀られたものであります。


山門



◆JR 関道地下道

ここをくぐって線路の反対側へ。





◆大井中央病院




◆作守稲荷神社






◆稲荷神社

ものすごい狭い通路の奥にあった神社。
小さいがとても綺麗にされている。



伊藤博文別邸跡




伊藤博文  別邸跡
 この解説板の南側一带の広大な敷地(地図参照)は初代内閣総理大臣となった伊藤博文の別邸跡にあたります。明治四十年 (1907)、大日本帝国憲法制定に功績があった伊藤に対して、明治天皇から憲法草案の審議場であった元赤坂仮皇居会食所の建物と、移築費としてニ万ー千円が下賜されました。伊藤は東京府荏原郡大井村のこの地に約五千坪の土地を購入して移築し、「思賜館」と名づけました。
 その後、恩賜館の隣には和洋館並列型の二階建て邸宅が建てられ、伊藤の 嗣子・博邦一家が居住しました。伊藤没後、大正七年(1918)に恩賜館は明治神宮に献納され、「憲法記念館」と呼ばれ皇室関係の行事に使用されました。昭和二十二年(1947) からは、明治神宮の結婚式場「明治記念館」として一般に利用されています。
 和洋館の邸宅と敷地は、大正十一年に上杉伯爵家へ譲渡され、昭和十九年には日本光学工業(株)の所有となりました。平成十年(1998)老朽化のため解体され、邸宅の一部は山口県萩市に移築・公開されています。





続く。