2020/04/15 02 墨田区隅田散歩 01 八広駅/木根川橋/関東大震災朝鮮人殉難者追悼之碑/子育地像尊/隅田稲荷神社/鐘ヶ淵通り商店街/伊第17号踏切道

四ツ木駅から京成で一駅だけ乗って八広駅へ。
八広駅からは荒川沿いに北上する。



八広駅

再スタートの八広駅
外から撮るの忘れた(w



◆木根川橋

下は荒川。







関東大震災朝鮮人殉難者追悼之碑



関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼碑 建立にあたって
 1910年、日本は朝鮮(大韓帝国)を植民地にした。独立運動は続いたが、そのたび武力弾圧された。過酷な植民地政策の下で生活の困窮がすすみ、1920年代にはいると仕事や勉学の機会を求め、朝鮮から日本に渡る人が増えていた。
 1923年9月1日 関東大震災の時、墨田区では本所地域を中心に大火災となり、荒川土手は避難する人であふれた。「朝鮮人が放火した」 「朝鮮人が攻めてくる」等の流言蜚語(りゅうげんひご)がとび、旧四ツ木橋では軍隊が機関銃で韓国・朝鮮人を撃ち、民衆も殺害した。
 60年近くたって荒川放水路開削の歴史を調べていた一小学校教員は、地元のお年寄り方から事件の話を聞いた。また当時、犠牲者に花を手向ける人もいたと聞いて、調査と追悼を呼びかけた。震災後の11月の新聞記事によると、憲兵警察が警戒する中、河川敷の犠牲者の遺体が少なくとも二度掘り起こされ、どこかに運び去られていた。犠牲者のその後の行方は、調べることができなかった。
 韓・·朝鮮人であることを理由に殺害され、遺骨も墓もなく、真相も究明されず、公的責任も取られずに86年が過ぎた。この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された。





◆子育地像尊







◆隅田稲荷神社


板絵墨絵「神竜図」鴨下晃湖筆

 板絵墨絵(いたえすみえ)「神竜図(しんりゅうず)」は、隅田稲荷神社の拝殿の天井絵です。
いわゆる雲竜図で、17枚の槍板から成る画面に、雲間から半身を現す神竜(竜神)の姿が描かれています。筆者は、一時付近(現墨田3丁目37番)に住んだ鴨下晁湖(かもしたちょうこ) (1890~1967)です。
 晁湖は浅草出身の日本画家で、松本楓湖(まつもとふうこ) (1840~1923)に大和絵を学び、歴史画を得意としました。明治40年(1907)の第1回文部省美術展覧会で三等賞を受賞後、文展や帝展で入選を重ね、昭和7年(1932)に永久無鑑查の資格(無審査で出品できる資格)を得ました。
戰後は、柴田錬三郎(しばたかんざぶろう)の「眠狂四郎無頼控(ねむりきょうしろうぶらいひかえ)」など、時代小說の挿絵に名作を残しました。
 「神竜図」の制作期間は未確定ですが、昭和18年(1943)に社殿の改築が行われており、その頃のものと考えられています。地元にゆかりのある画家の作品であることに加え、墨田区内では希少な天井絵であることから、平成12年(2000) 12 月7日に墨田区登録文化財となりました。



境内社



八幡神社



白髭神社



楽殿



鳥居



参道入口



万燈神輿発祥之地碑

「万燈神輿」とは, 弓張提灯を四面に掲げた神輿のこと。

碑文
 万燈神輿の起源は元治年間(1864年)と 伝えられ 墨田開拓の祖 江川善左衛門雅門公の徳をたゝえた 里人が万燈に善左衛門の開拓由来の 錦絵を描き神輿として担いだのが始まりと云はれる。大正4年に中止となり昭和50年に約60年振りに復活し毎年の例大祭の宵宮を賑わす行事として知られる。1977年及び1979年2月フランス、ニースのカーニバルに参加し国際親善に寄与す







◆鐘ヶ淵通り商店街







◆伊第17号踏切道








みっけ♪





続く。