2020/04/15 02 墨田区隅田散歩 02 鐘ヶ淵駅/香取神社/多聞寺/鐘淵紡績発祥の地/隅田水門/横断跨線人道橋/堀切駅

まだまだ荒川沿いに北上する。


鐘ヶ淵駅




香取神社




境内のほとんどが駐車場だね・・・。



◆多聞寺



六地蔵坐像



 この六地蔵像は総高約150センチで、いずれも安山岩の四石からなっており、地面から一、二段目は方形の台石、三段目は蓮台、その上に、それぞれ60センチの丸彫り地蔵坐像がのっている。像容は向かって右から持物不明の坐像が二体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋を持つ坐像、持物不明の半跏像、合掌している坐像の順に並んています。
 欠损や修復の跡かみられますか、僧覚誉理度(ぞうがくよりけい)(利鹰(りけい))が願主となり、七年間にわたって隅田村内の地蔵講結
衆の二世安楽を願って造立されたことが刻銘から読み取ることがてきます。
 隅田村地蔵講中の数年間にわたる作善行為を知り得る貴重な資料といえます。
 六地箴の製作年代は右から、正德三年(1713)二月吉祥日、同四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日、同二年二月吉祥日、享保元年(1716)九月吉祥日、同三年十月日と刻まれています。




東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨

 1945 (昭和20) 年3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別繊巻爆撃を受け、 下町一帯は“炎の夜” と化した。 この東京大空
襲により下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、重傷者11万人、100万人が家を失った。(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)
 この元浅草国際劇場の鉄骨(1998年現在、大部分は江戸・東京博物館に展示中)は、東京大空襲を語り継ぐ、数少ない歴史的“証人”である。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃弾を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎれ、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人々が焼死した。目の前の痛ましくひきちぎられた鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖がよみがえる。
 戦争の実相を伝える“証人たち”に静かに心を傾け、不殺生の誓いを新たにしましょう。




戦災の証言者

 パールハーバーから半世紀、 終戦から46年目の1991年8月12日、この木は荒川区西日暮里1丁目2番7号 (旧、三河島4丁目 3 4 2 0 番~3421番)に新しくビルを建てるための掘削により発見されました。
 東京地域では、1942年4月18日から、1945年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。
 ここに展示されている木は、 43回目の1945年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空襲で焼かれた木です。
 当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、 烧夷弹2037.7 tで罹災地域は、西日暮里を含め139ヶ所に及びました。
 戦火で焼け爆れたこの木は、生命の尊さを訴えるとともに、 今、 平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、 私たちに求めています。



石塔群




山門




 多聞寺山門は、木造切妻造の四脚門(しきゃくもん)で、現在では珍しい茅葺屋根を持ちます。幅が太く深い文様を彫り出す点に特徴のある簡素な和様の造りですが、控柱の礎石(礎盤)など一部に禅宗様の技法が確認できます。
 寺伝によれば、多聞寺の山門は、慶安二年(1649) の建立後、享保三年(1718)二月に焼失しています。再建年は不明ですが、寺の過去帳に享和三年(1803)二月の火災に関する記録が見え、その中に「表門は焼けず」とあります。また、専門家による調査の結果、現存する山門の建立年代
は十八世紀を降(くだ)らない、との判断が得られています。
 これらのことから、この山門は享保三年以降に再建され、享和三年の火災で焼失を免れたものではないかと考えられています(ただし後年幾度か政修が行われています)。
 多聞寺山門は、このように、建立年代が江戶時代中期に遡る可能性が考えられる貴重な文化財です。平成十六年十月一日に墨田区指定有形文化財に指定されました。



多聞寺の山門

 山門中央の「隅田山」と記され た山号額の裏に「明和九年」 (1772年)と彫られておリ、現存する墨田区内最古の建造物と して区登録有形文化財とされています。
 屋根を支える本柱の前後に二本ずつの控柱(ひかえばしら)をもつところから四足門または四脚門と呼ばれ る 形式の門です。一部には朱と思われる痕跡があリ、建立当初は朱塗リ瓦葺きであったことが察せられます。 その後、享和三年 (1855年)の火災、安政二年(1855年)の大地震などの被害を受け、後に茅葺にされたものと思われます。その後もこの門は、排仏毁釈、関束大震災、十五年戦争などの天災と人災の歴史を<ぐリ技け、娑婆(人間自身が作り出した苦しみの世界)の人々の営みを見据えててきました。
 これからも、安楽を願う人々を見守ってくれるでしょう。








◆鐘淵紡績発祥の地

此の地は古くから沈鐘の伝説があり、江戸時代に入って 将軍徳川吉宗公が之の引揚げを下命しましたが成功せず 鐘は毎夕月の出と共に燦然として光を放ったといわれ ます。 周辺の風光明媚を愛でて 徳川氏はこゝを将軍家 専用の野菜畑とし御前栽と称しました。
明治二十年近代工業の先覚としてこの地に東京綿商社 が設立せられ,、紡績機械ニ万九千錘を英国より輸入して 東洋第一の紡績工場を建設。明治二十二年社名を鐘淵紡績株式会社と改称しました。 爾来近代日本の進展と共に工場は拡大し、その技術は全国津々浦々に結実し製品は カネボウの名声と共に遠く欧米各国を席巻しました。 また過ぐる関東大震災東京大空襲当時その職に殉じて斃れた者は五十余柱に及びました。
いまこゝに時代の進運と共に工場の移転を実施するに当って鐘紡稲荷神社並びに慰霊観音像を奉安し八十余 年に亘ってうけたこの地域社会の御かげを感謝すると共に老人と児童の憩いの場を設けて記念庭園とし永く先人の偉業を偲ぶよすがとなることを切願するものであります。












◆隅田水門




綾瀬川と荒川の間にある水門。




◆横断跨線人道橋

右側に隅田水門が見える。








綾瀬川





堀切駅






続く。