2020/04/17 平和島散歩 03 新橋/海難供養塔/美原通り/内川橋/最勝稲荷大明神/玉森稲荷神社/津島神社/美原児童公園

かなりジグザグに北上。
平和島駅に向かう。


◆新橋

下は内川。









◆海難供養塔








◆美原通り










◆内川橋









羽田道(するがや通り)

羽田道の出発点である内川橋は、昔するがや橋といわれ「駿河屋」という旅宿があったので、現在のするがや通り」という名が残されている。



旧東海道(美原通り)

 東海道は、江戸時代初期に幕府が整備した、江戸日本橋を出発点とする五街道の一つで、江戸と京都を結ぶ、最も重要な交通路であった。参勤交代の大名行列のほか、一般の旅人にも大いに利用された。
 昭和二年(1927)、東海道は拡幅改修され、第一京浜国道が完成した。そのため往時の幅員を比較的よく残しているのは、この美原通りと六郷地区の一部だけとなった。
 旧東海道は、かつて三原通りと言われた。三原とは、字名(あざめい)の南原、中原、北原の三原のことで、美称して美原になった。
 歌舞伎「浮世塚比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)」(鶴屋南北(つるやなんぼく)作)で有名な旅龍『駿河屋』のあった「するがや通り」は内川橋の際から分かれる。




内川のあらまし
 かつて内川は山王や馬込・池上の沼の水や湧水を集めて流れる全長5㎞ほどの川で、六郷用水と合わせて低地の農業用水として使われていました。また、水道が引かれるまでは飲み水としても貴重な水源となっていました。自然も豊かで、コイ・フナ・ナマズといった魚や、トンボやコガネムシなどの昆虫、川岸にはイチジクなどもあり、子どもたちの遊び場としても人気の高い場所でした。大正6年以降、新田橋から内川橋まで現在のように直線に改修されてからは川幅が広げられ川底も深くなり海苔舟が行き来できる川となりました。
 現在内川は大田区の北部大森地区を西から東にまっすぐ流れ、平和島運河に注ぐ流域面積3.25㎢、延長1.55㎞の二級河川です。東海道線より下流が法定河川区間となっており、その上流は下水道幹線として整備されています。また、河口部には高潮対策として防潮水門と排水機場が設置されています。
 近年下水道の普及や水質浄化に伴いボラやサッパといった魚や、カニなども見られるようなり、また、河口には水鳥の集まる干潟が残るなど、今でも人や水辺の生物にとっての身近な自然空間として重要な役割を担っています。

内川の歴史
馬込や山王の木原山にみなもとを持つ内川は、大森町の山谷通りと、東邦医大通りの交差する大森西四丁目のバス停近くでいっしょになっていました。このあたりの内川は水の量が多く、流れが速かったので「ドンドン川」とか「ドンドン引き」と言われていました。
 今の大森四丁目のバス停あたりにとよをかけ、諏訪神社浅間神社のある大森西二丁目側に水を送ったのでかけどよのあったこのあたりをとよ口と呼んでいました。現在の大森西四丁目10-11-12番の交差点付近には”せき”が作られていました。”せき”と言っても、高さ3メートル、はば30センチくらいの石の水門が取りつけられただけのものです。
 内川は米作りにはむかない水でしたから、この”せき”には、呑川から六郷用水が引いてきてありました。”せき”の水門はふだんは開けてあり。用水が川底の低い内川にどんどん流れ落ちるようになっていました。
 内川には二つせきがあったので、六郷用水の入ってくる「とよ口」の”せき”を「入り」と言いました。
 ”せき”と”かけどよ”の間には水車小屋があり、昼も夜も大切な水がむだに使われないように見守ったり、水門を開けたり閉めたりして、水の調節をしていました。
 そして米作りのために、水が必要な5月から9月まで水門は閉められます。内川に流れ落ちなくなった用水は、この”かけどよ”を通って。大森のあちらこちらの田んぼにゆきわたるようにしてありました。
 この”せき”は、東京湾からの海水があげ潮になったときに、「とよ口」に流れこまないようにつくられたものです。水門を閉めると、川の落差が3メートルにもなり、はめ板の上から水が滝のように流れ落ちていました。
 大正7年大森海岸に水道会社ができましたが、水道が大森の家庭に広くゆきわたったのは、大正12年ころです。それまで私たちの町では、水屋さんから買ったり、自分たちで汲んだりして、内川の水を飲み水として利用していました。
 9月半ばになって水門が開かれると、子どもたちはいっせいに川に飛びこみ、コイやフナ、ナマズなどを手づかみでバケツいっぱいに取りました。水泳もこのせきで覚えた人が多く、この”せき”は当時、大森町周辺の少年たちにとって楽しい遊び場でした。



◆最勝稲荷大明神



◆玉森稲荷神社



当社社記に依れば天保年間武蔵國六郷領東大森美原の里内川の耕地に貝塚あり松榉茂れる処に小祠あり王森稲荷神社と称し諸人奉賽せしが此の頃農作物不作に悩める住民集まりて当社に豊作の祈願をなしたるところ其の後年々五毅豊饒となり土地大いに賑えり依って諸人の神徳を崇め五穀豊穣の神として不入斗村鈴ケ森の神主森田左京衛に依頼し社殿を建立し一層崇敬の念を深める。
之当社の起源にして其の後この地益々発展するに及び境内の拡張整備を行う。
当初の社殿は戦災にて焼失其の後仮の社殿であったが昭和四拾四年十二月七日崇敬者の奉賛に依って再建遷宮式を行う。






 この記念碑は 日露戦争に出征して歷戰の後 無事帰還された皆さんが大森町役場に奉納されたものですが昭和七年に東京市編入されましたので昭和八年十月に大森神社 (寄木神社)に移設されたのです
 近年 町会役員及び皆さんのご要望がありましたので ここに移設したものです



鳥居1



鳥居2



津島神社



石塔群





◆美原児童公園




続く。