2020/05/05 東高円寺散歩 04 妙法寺参詣道(堀之内堂)/大和湯/蚕糸の森公園/東高円寺駅/青梅街道/妙法寺旧参道金剛燈籠/新高円寺歩道橋

大和湯まで東へ進んだ後は、北上。
蚕糸の森公園付近を散策。



妙法寺参詣道(堀之内堂)

 この道は、江戸(東京)から日蓮宗妙法寺へ向かう代表的な参詣道で、「堀之内道」「妙法寺道」と呼ばれていました。青梅街道から鍋屋横丁(中野区)でわかれ、堀之内村の妙法寺へと続く道でした。『新編武蔵風土記稿』和田村の項には「北ハ堀ノ内妙法寺道ヲ界トシテ」と、この道が和田村と高円寺村の村境であったことがわかります。
 江戸の町医者が記した随筆『塵塚談』には「堀の内祖師」について、昔は「地名を知れる人もなかりしに、近頃にいたり祖師堂はもちろん堂宇の設けも伽藍の如くに造建し、新宿より寺の門前まで水茶屋、料理茶屋其外酒食の店、数百軒簷(ひさし)をならぶ、日蓮宗にかぎらず、並 諸宗門の人も尊敬して、年々月々に賑わ しく繁栄なり」と、江戸時代後期、「厄除け祖師」として江戶庶民の信仰を集めた妙法とその参詣道の繁栄ぶりが記されています。
 堀之内道から少し南に位置しますが、平成十九年に実施された本村原遺跡C地点(現、女子美術大学内)の発掘調査では、「しがらき」とある茶院が出土しました。江戸時代、妙法寺の参詣者で賑わった堀之内道の水茶屋。料理屋の中でも、のっぺい汁をだす「しがらき」は有名で、天保十二年(1841)には370人の客がいたと記されています(『江戸見草』)。
 明治に入り甲武鉄道(中央線)が開通すると、中野駅から妙法寺へ向かう道が開かれ(堀之内新道)、東京から歩いて向かう参詣道であったこの道の利用者は減少しました。
 現在、この道は「和田帝釈天通り」として、商店会通りの中程に位置する和田帝釈堂(ここより教十メートル先)を中心に地域の方々に親しまれています。





◆大和湯

銭湯♪



蚕糸の森公園

コチラ2回目。
人がいっぱいいたので今回は中に入らなかった。
2017/01/24 蚕糸の森公園/西町天神北野神社/高円寺天祖神社 - ovanの社会科見学










東高円寺駅

東京メトロ丸の内線東高円寺駅




◆青梅街道

 青梅街道 この前の道は青雑街道です。青海街道は慶長十一年(1606)、江戸城修築の城壁用に武州多際郡の上成木(かみなりき)村・北小曽木(おそき)村(現青様市)産出の石灰を運ぶ道(初期には成木街道とよばれた)として、大久保石見守(いわみのかみ)長安によって開かれたと伝えられています。石灰輸送は歳の修築等のほか、民間の需要も多く、 最盛期には年間二万俵以上にも達したといわれます。 道中には中野・田無・小川・箱根ヶ崎・藤様・小川・箱根ヶ崎・藤橋等継送りのための宿駅がおかれ、区内の田端・成宗・馬橋・和田の四箇村は中野宿の定助郷(じょうすけごう)(江戸時代、 宿駅常備の人馬が足らず指定されて応援の人馬を負担する課役)と定められ、 一か月十日間の伝馬継立(つぎたて)を行っていました。
 江戸中期以降、青海街道は江戸の都市域の拡大と経済の発展にともなって、 江戸と近郊農村との商品流通路・甲州への脇往還(甲州裏街道)としての性格を強め、一方、御嶽神社(青梅市)や秩父巡礼のための通行路としても発展し ました。御嶽参詣の道中を記した天保五年(1834)刑行の「御嶽菅笠」は、 「获久保(窪)の中屋の店に酔伏て」と、当時のにぎわいの様子を伝えています。
 維新後、本道の重要性はさらに高まり、明治時代には乗合馬車か走り、大正十年には淀橋~萩窪間に西武電車が開通しました。西武電車は戦後都電となり、昭和三十九年に廃止されました。
 なお、杉並の名称は、江戸初期に成宗村・田端村の領主となった旗本岡部氏が、村境の印として、青梅街道沿いに杉の木を植えたことに由来するとい われています。



説明看板から東方向。



同じく西方向。




妙法寺旧参道金剛燈籠

wikiで調べると、杉並区の指定有形文化財らしい。
妙法寺 (杉並区) - Wikipedia



新高円寺歩道橋








続く。