2020/05/07 戸越散歩 04 笠森稲荷神社/文庫の森/区立戸越体育館/戸越公園/東急大井町線ガード/古戸越川暗渠跡

まだまだ南東に進み、大井町線のガードをくぐる。


◆笠森稲荷神社






◆文庫の森





三井文庫第二書庫



(壁式鉄筋コンクリート造3階建て、1922、改修1926)
[歴史]
 「文庫の森」一帯は1662(寛文2)年に熊本藩の分家熊本新田藩が下屋敷として拝領、 その後本家の所有となり戸越屋敷として整備された。その後、1890(明治23)年に、財閥の三井家の所有となった。やがてこの地に三井文庫が設置されることになり、平家の事務棟と3階建ての同形の書庫2棟が、すべて鉄筋コンクリート造で建てられた。事務棟の主要部と第一書庫車の竣工は1918(大正7)年で、第二書庫は、事務棟増築とともに1922(大正11)年に完成した。これらの建物を設計したのは、東京帝国大学営繕課長(当時)の山口孝吉(1873-1937)である。
このうちで現存するのが第二書庫である。

[構造形式]
 第二書庫は、約14m×9mの長方形平面の建物で、空気層を挟む2重の鉄筋コンクリート造壁で囲われている。柱ではなく、壁が荷重を支えるこのような形式は、壁式構造と呼ばれる。大正・昭和戦前期の日本の鉄筋コンクリート造建物にはこの形式は稀で、現在知られているかぎりでは、この建物が最古の現存例である。ちなみに、2重壁にしたのは史料を火災の熱から守るためと考えられる。1階スラブ(床)と屋根スラブまで鉄筋コンクリート造にしているのは当時では珍しいが、建物を不燃材で囲うということで、これも防火のためと見られる。
 内部には書架が並んでいるが、その書架の柱を鉄骨にして、その上の梁を受ける構造材としても利用しているのが注目される。梁は、平行に並ぶ書架に合わせて、通例よりもはるかに狭い1.6m間隔で並び、その梁のラインに1.2m間隔で3本1組になった書架の鉄骨柱2組が一列に配されて、6つの点で梁を受ける。この鉄骨による多支点支持は、書籍などの史料の重さに耐える必要があるという書庫の目的にもかなうユニークで巧みな手法で、それにより約9mの梁間では90cm程度必要になるはずの梁の高さを20cmに抑えることもできた。ちなみに、書架の鉄骨柱は、アメリカ製の山型鋼を背中合わせに4本組み合わせて十字形断面(端の柱は2本でT字型断面)にしたものである。

[建築技術史的価値]
 1923(大正12)年の関東大震災では、この建物はほとんど被害を受けなかったが、この震災の被害の多くが火災によるものだったことを教訓に、三井文庫は直ちにこの建物の防火性能を高める改修工事に着手した。窓を市松模様につぶして火が入る危険を減らしつつ、残した開口部の内外面に人造石研ぎ出しの防火戸を増設した。この改修工事は1926(大正15)年に完了した。
 以上から、この建物は、ユニークで巧みな構造でつくられている点で、日本における壁式鉄筋コンクリート造建物の現存最古のものと見られる点で、また震災の教訓をすぐに活かして防火性能を高めた点で、建築技術史上注目すべきものといえる。








◆区立戸越体育館



戸越公園



 本公園は寛文2年(1662)、肥後熊本藩の分家熊本新田藩立細川利重が下屋敦と して拝領、寬文6年に本家の所有となり、寛文11年までに数奇屋造りの御殿や庭園からなる戸越屋敦として整備された屋敷地の一部にあたり ます。文化3年(1806)、石見浜田藩松平周防守の屋敷となり、さらには伊予松山藩松平隱岐守の手に渡りました。明治の変革により何人かの手を経て、明治23年(1890)三井家の所有となりました。
 昭和7年(1932) 9月、三井家は学校用地、公園用地として、現在の戸越小学校、 都立大崎高等学校を含む別邸の庭園部分を荏原郡荏原町に寄付しました。同年10月、東京市域拡張に伴い、荏原町東京市の一部として荏原区となり、公園用地は東京市に移管され、昭和10年3月東京市戶越公国として開園しました。
 その後、昭和18年の都政施行 により東京都が管理することとなり、昭和25年9月、一部が都立大崎高等学校となるなどの変遷を経て、翌10月現在の公園部分が品川区に移管されました。その後区では数次にわたる改修を重ね、歴史的な風情を復えさせ武家屋敷の零囲気をかもしだすよう、正門を始め施設の再整備を行い現在に至っています。
〈公園の概要》
1. 面 積 18,255.0㎡ (池の面積 1,815㎡)
2. 開 國日 昭和10年3月24日
3.公園便所 3ヶ所(身障者用便所1 ヶ 所含む)
4. みどころ 池を中心とした回遊式庭因に咲くサクラやツツジキンモクセイ、ウメなど
5. 主な利用 区内だけでなく区外からの利用も多く、朝のラジオ体操やゲー トボール、祭り、いろいろな催しなど多岐にわたり利用されています。


薬医門




 本公園は寛文年間(1662)に熊本藩細川家の下屋敷の一部となっていました。
 この戸越屋数は、江戸滝の口の上屋敷及び芝白金の下屋敷とは性格が異なり、薦狩りやきじ狩り、あるいは茶会等を行う別荘風の邸宅であっだとれています。 したがって、この戸越屋敷に設けられていた武家屋敷門は、上屋敷あるいは芝白金の下屋敷に構築されていたと推定される長屋門とは異なり薬医門、冠木(かぶき)門等 の簡素なものが中心であったと考えられます。
 以上の歴史的背景をふまえ簡素で質実剛健な様式で あり、本公園の正門にふさわしい点から平成四年四月にこの薬医門を平成二年三月には東門として冠木門 を構築しました。
 薬医門のいわれは医師の門として使われだことから こう呼ばれていたようです。
 主材としては台檜(台湾檜)、三州日本瓦などそ使用した本格的な造りとなっています。





鯉塚



山北の石

 神奈川県北西部に位置する山北町は、日本列島の生い立ちを物語る多くの手掛かりを残しているところです。特に、ベスブ石キンセイ石大理石・金・鉄・マンガン等の鉱物をはじめ、地殼変動や熱を受け変成した岩石、動植物の化石等を多数産出し、学術的にも貴重なところです。
 この大きな石は、 石灰薬という下等な海の植物とサンゴの化石を含む石灰岩で、 今からおよそ1,500万年前のものです。この石から、現在、木々の緑に囲まれ、清流に洗われる山北町は、当時、サンゴ礁の青い海の中にあり、激しい海底火山の噴火にみまわれたことがわかります。




光悦垣(こうえつがき)



 江戸初期の文化人本阿弥光悦菩提寺である京都鷹ケ峰 日蓮宗光悦寺の茶庭に造られていた透かし垣です。 矢来(やらい)垣の上に割竹を巻いた太い玉縁をかぶせます。 玉縁のゆるやかな曲線もこの垣根の特徴です。





東急大井町線ガード






◆古戸越川暗渠跡

google mapのマークの位置はだいたいこの写真の辺り。
説明板などは無かった。






続く。