2020/05/09 池上散歩 04 養源寺橋/妙雲寺/柔心地蔵/曙楼門柱跡/めぐみ坂/大森めぐみ教会

池上本門寺東側エリアを北上する。


◆養源寺橋










◆妙雲寺




元和年問(1615~1622)長勝寺と同じ智雄院日正聖人により開創。 小湊誕生寺の末寺となる。守護神として若宮八幡社(堤方神社)を勧請したのもこの頃と思われのちに妙雲寺が別当となる起因となった。
駐車場入口にある庚申塔は、青面金剛と三猿が「見ざる、聞かざる、言 わざる」の謹慎態度を示して浮彫りにされたもので、水をかけて祈願す ると足腰が丈夫になると伝えられて いる。







◆柔心地蔵





◆曙楼門柱跡



当山は江户幕府の不受不施禁圧と明治維新政府の廃仙政策の打擎により境內地の大半を失い、こ^に明治初期創業された料亭曙楼の門柱が建てられていた。木骨煉瓦造りの珍しい構造で保存を望む声も矢かったが、木骨の腐食甚しく復旧不可のため、日運聖人七百遠忌記念当山建設事業の折除却された。


青面金剛




◆めぐみ坂

坂下。



 現在では、坂の西側にめぐみ教会があるため、めぐみ坂 と呼ばれることが多いようである。 かつては、昭和4年までこの地にあった料亭「あけぼの楼」にちなみ「あけぼの坂」とも、古くは「相の坂」とも呼ばれた坂道である。






◆大森めぐみ教会

めぐみ坂の途中にあった。


木下順庵先生之墓



 大森めぐみ教会の正門の傍らに建つ「木下順庵先生墓跡」の碑は、この地に江戸前期の儒学者として有名な木下順庵(1621~98)の基があったことを伝えている。
 木下順庵は、五代将軍德川綱吉の時(1687~1709)、幕府の儒官、将軍の侍講に挙げられ、新井白石ら多くの儒学者を育てた。その功により、元禄十一年(1698)に亡くなると、幕府よりこの地を墓所として与えられ、堤傍(つつみかた)(堤方)村村民荒忠七とその子孫が墓を守っていたが、大正三年(1914)全国の儒者とともに小石川の大塚先儒基所に改罪された。
 明治期になって、この地で鉱泉が発見されると、明治十九年(1886)に河野実成が大料亭「明ぼの楼(明保乃楼、曙楼)」を建て、光明館などの池上温泉場が設けられた。池上本門寺に連なる台地斜面にあり、達く房総を望む景勝地であったことから、多くの政治家や著述家たちが訪れた。田山花袋の『東京近郊』や徳富蓋花の『富士」などにも登場する。庭には無数の梅や南天等が植えられていたといい、今も庭内に残る二本の梅の木は、三代将軍家光(1624~50)のお手植え梅と伝えられる。
 この地に、大森めぐみ教会と幼稚園が移転してきたのは、昭和二十年(1945)五月のことである。大森めぐみ教会と幼稚園は、昭和二年(1927)、大田区新井宿(現中央七丁目)に岩村清四郎牧師が設立、更に昭和十四年(1939)めぐみ高等女学校を創立したが、不幸にして戦災によって焼失したため、教会と幼稚園だけがこの地に移転した。敷地2000坪。




続く。