こちらでも前のエリアから東へ進む。
高低差があるのでまっすぐ東へなかなか進めない。
◆貴船坂
坂下。
坂上。
坂名の由来となった貴船明神(神狐の石像)は、東之院(ひがしのいん)(池上1丁目7番)に 昔、本門寺の鬼門除けとしておかれていたが、神仏分離令で同寺院と分離され、近くの太田神社(中央6丁目3番) に合祀されたと伝えられる。
さすがに判読が不可能だったのでネットを頼った・・・。
神楽殿
坂上。
坂上の東北 (中央五丁目4~2)に通称「黑鶴稲荷」という稲荷社がある。伝説によるとその境内で捕獲された黒い鶴を、将軍家に献上したところ、吉兆であると喜ばれたという。「蓬莱」とは、縁起のよいことに使われる意味もあり坂名はその黒鶴伝説に因みつけられたのであろう。
坂上。
かつて、この坂から大森の海や帆,海苔策などがよく見えたため、汐見坂と呼ばれた。また、こ の坂道は池上本門寺への旧池上道の近道でもあった。
由烤
桐里、梅田町地区は昔桐ヶ谷村と言われ、本門寺を合めて呑川ど 肉川に挟まれた馬运台地の南東に位置する独立丘て、南東より中心に向かって支谷が入り込み、馬蹄に近い形を呈している 。この地は縄文崎代に本門寺、桐ヶ谷横穴墓群が台地の缘辺に分布している程、昔から人が住んでいた。
三河出身の二代目山本近正は手鹰師として德川家康に仕え、天正十八年(1590年)の関東入国にって、荏原群桐ヶ谷村て五十石余を与えられた。以後代々、幕府の御手鹰師や鷹匠を世襲した。 四代尚盛のとき百石に加増された。文政十一年(1828 年)幕府の命により桐ヶ谷村は幕府领に組み入れられた。
この神社の創建の年代は明らかてはないが、三代将軍家光の頃、山本氏が鷹匠として稲荷神社の境内て珍しい黑鶴を捕え将軍家に献上したところ、吉兆であると大いにこれを賞されたとして、 「黒焼稲荷」と呼ばれるようになったという。
そして東南に下る長い坂てある「蓬莱坂」は、蓬莱というこの吉兆を象徵した名を付けた坂名てある。そして神社階段下の坂は「汐見坂」といい、大森方面から本門寺に最短で行け、坂上から海の汐や船の眺めが良かった坂道です。
また、旧桐ヶ谷村の農民が庭内社を合祀し、以後桐ヶ谷村の鎮守と成るに至ったと云われ、東閑森稲荷の呼称は元来、境内の丘を十神森と呼んだことに由来すると、語り继がれている。
続く。