2020/05/12 馬込散歩 05 大森消防署馬込出張所/室生犀星旧居跡/萬福寺/庚申燈籠/馬込神明社/神明児童公園

神明児童公園まで東へ進む。



◆大森消防署馬込出張所




室生犀星旧居跡




わが宿はまごめのさとの 藪なかに 灯ひとつ点れ さぶしとは思はず
                        短歌「門のべ」より
 室生犀星は、庭をこよなく愛し、そしてまた、家庭を大切にする人でもありました。病気がちの子供のために全財産をはたいて家を建てると、今度は庭にも心を注ぎます。樹や石・苔・水など庭が整えられると、萩原朔太郎佐藤惣之助らの親しい友人を招き、あやめや庭越しの月を眺めながら、夫人の料理に舌づつみをうちました。




萬福寺



 江戸名所図絵に「慈眼山萬福寺馬込村にあり曹洞派の禅林にして本尊は金銅阿弥陀観音勢至一光三尊なり。相伝う、当寺は梶原平三景時創立の梵宇なり」と。
 当寺は鎌倉時代の初期、建久年間(1190年頃)に梶原景時が将軍源頼朝の命により大檀那となり梶原家相伝の阿弥陀如来三尊仏を本尊として大井丸山と云う処に建立された。
 元応二年(1320)に火災にあい、景時の墓所のある馬込へ移され再建された。
室町時代末期になり寺域荒廃し、天正三年(1575年)に相模鎌倉の禅僧明堂文大和尚によって従来の密教寺院から曹洞宗に改め再興された。
 当山創建以来実に八百年その間栄枯盛衰を極むるも法灯連綿として仏法脈たり正法を相伝し総柤中の発菩提心により今日の隆昌をみる。爾今永代に亘り平安護持すべきものなり。


案内板




室生犀星説明板

 俳号魚眠洞。金沢生。 俳句や詩を学びなから放浪生活の後、詩誌【感情】を創刊。その後小説にも目覚め、詩人・小説家として活躍する。
 主な作品には、【愛の詩集】【叙情小曲集】【幼年時代】【あにいもうと】【杏っこ】などがある。
 1928年大森区馬込町谷中に在住。1932年馬込東3丁目講福寺西隣りに新居を構える。
 1962年3月26日、やすらかに永眠天寿74才。
 没後「われはうたへどもやぶれかぶれ」 が刊行された。この度縁在りて犀星がこよなく愛した住時を偲ぶものなり。


特にお墓や史跡があったというわけではないみたいだね。



梶原平三景時の墓



 梶原景時源頼朝重臣鎌倉幕府の代表的武将である。治承四年(1180年)頼朝は伊豆において源氏再興の挙兵をなし小田原石橋山の戦いで平家の軍勢大庭景親に敗れた。
 この時景時はいち早く頼朝を助け洞穴にかくまい機を見て真鶴海岸より舟で安房(千葉)に逃れさせた。
 その後、頼朝と共に東国武士を臣属せしめて鎌倉幕府を擁立した。
 建久年間(1190年)には頼朝の命により当山を建立し大檀那となり三国伝来の三尊仏を本尊として記り鎌倉殿の昌運と必勝祈願をなした。その霊験あらたかなり。
 源平の戦いでは義経・範頼等と共に兵を引きいて富士川の戦・一ノ谷の合戦などで勝ち赫々たる武勲を上げその名を天下に轟かす。
 景時は鎌倉殿の絶大なる信任により頼朝の随身として常に幕府の要職にあり終生変らず頼朝に忠節を尽し全うした。
 最も頼朝は命の恩人である景時がいなかったら頼朝もなく鎌倉幕府も出現しなかったと言われている。景時の功績は大きく実に天下をゆるがすものであり誠に美事と言わざるを得ない日本の歴史上重要な人物の一人である。
 頼朝死去(1199年)後の正治二年正月廿日(1200年)三河、今の静岡で壮烈な戦死を遂げ当山に祝る。
歌舞伎十八番の石切梶原の鎌倉八幡宮社頭の名場面は余りにも有名である。




魔術の女王 松旭斉初代天勝の墓



 初代天勝(本名・中井カツ)は日本一の魔術師松旭斉天一の弟子として入門。11オの春初舞台、16才で欧米巡業の旅に出て20才で魔術の女王と語われ、明治・大正・昭和の三代に亘り一世を風びした。
 天勝劇団は百名に及ぶ座員これを率いて国内はじめ欧米諸国を長期公演すること数十回、その名声は日本の天勝から世界の天勝へ飛躍す。
 震災後、後藤新平東京市長の要請により海外からの見舞御礼としてハワイ・シスコ・ロスを興行中、人気沸勝して全米を圧し、逐に念願のニューヨークの桧舞台に上る。この間一年有半となる。
 大正十四年四月帰国。帝刺で帰朝披露をなし美事ダイヤの女王時代を築く。この時初めて我が邦にジャズダンスとレビューを入れて天勝の全盛期を迎える。戦中は国のため滅死奉公として国内・朝鮮・満州支那の奥地まで悉く巡業慰問したことは特筆すべきものである。
 又、日本の伝統文化を広く海外にPRLた民間外交の先駆者でその功績は偉大なもので枚拳にいとまがない。
 天勝の舞台生活四十年、昭和十九年十一月十一日、目黒権之助坂水明荘にて六十年の波潤万丈の生涯を極めた。しかし天勝の芸魂は不死烏の如く日本芸能界に異彩を放っている。
 中井家の菩提寺西徳院に埋葬されたが三橋支配人の「天勝を残す会」がもたれ当山及高野山に分骨され魔術の女王としての面目曜如たるものがある。
 ●三橋支配人は、泉州の生れ堺段通の貿易商でロスに店をもった成功者である。成駒屋(先代雁次郎)の幼な友達で川上音次郎や上山草人と別懇の仲であった。当時渡米した芸能人はこの人の世話にならない者はなかったと云われている。特に天勝の人柄と至芸には心底から惚れこんで親身の世話を生涯した人である。



「初代天勝」でwikiでも探してみた。
写真を見ると確かにきれいな人だねぇ。
松旭斎天勝 - Wikipedia



鐘楼



摩尼輪堂



水屋



半杓水
 越前永平寺はきれいな水の豊富な処です。永平寺開創の道元禅師さまは、一杯の柄杓の水でも、全部お使いにならず、半分は元の川の中に、静かにおかえしになられたと伝えられています。
 それはもののいのちを大切にする禅師さまのお心くばりから出たものでしょう。
 また、のちの世の人々が不自由しないようにとのやさしい思いやりと祈りの現れでもあるのです。
 永平祖山の正門にある左右の大石柱は永平七三世泰禅禅師の揮豪による詩文です。

 杓底一残水 しゃくていのいちざんすい
 汲流千億人 ながれをくむせんおくにん

これは半杓水の所作そのものが禅の心であり多くの人々が山門に入れば、生きた仏教の真髄を汲みとっていくであろうと云う意味もあらわしているのです。



水洗い馬込地蔵

 当山の墓地に貞亀妙栄信女と刻まれた墓碑が残っています。これは江戸時代に生きたお幸という女性の墓であります。
 当山の過去帳にも、「慶応三(1867)年七月 亡 八幡新五郎の妻お幸」と記されています。
 このお幸という人は一種の霊力をそなえていました。たとえば、お乳の出ない婦人の胸を手でしばらく押さえていると乳が出るようになったとか、その他にもいろいろな病気を治すことができたと伝えられています。
 そのために、江戸の大名などのお屋敷や旗本豪商の婦人にその名が知られるようになり、まじないを受ける者が多くなって、ついには龍で招きを受けるようになったそうです。
 お幸が死んだ後にも、その名は高く、墓に参詣祈願し、その霊効を信じる人が多かったということです。(大田区史より)
 「お幸身代わり地蔵著薩」は「お幸」の追善供養のために当山が建立した霊験あらたかなお地蔵様です。
 「水洗い地蔵」の通称のとおり、参詣された善男善女の皆様方が、このお地蔵様の霊効を心から崇め、祈願を念じて、お像に水を掛け洗い清めますと自らの心も洗い清められ、お地蔵さまがお身代わりとなって下さって、災尼消除、無病息災、病気平癒、身上安全、安産成就、など招福安楽のご功徳が授かります。



日待供養塔



 この供養塔は寛永十五年(1638)に馬込村の人びとが造立した。
 高さ3.1メートル。現在は新しい台石の上にのせられ、総高約4メートル。相輪が大きく、笠石・基礎が比較的小さい、近世初期によく見られる形式の宝篋印塔である。
 昭和三十年頃までは、中馬込三丁目二十五番付近の梶原塚と呼ばれるところに建てられていたが、今は当寺の境内に移されている。
 馬込では大正期まで日待の習俗が行われており、江戸初期から現代まで伝承された民間信仰の資料として貴重である。



萬福寺鬼子母神



 総檀中の心願により霊跡塔を建立した処その念願成就して鬼子母神現る。誠に不思議なる因縁なり。昭和初期の荒廃時に当山を離れてより風説五十年。その間所処を転じ、いみじくも聖人の足跡を辿って身延近き富士吉原に在りしが諸行無常なり。故に自ら法輪を転じ聖人の意志である本来の鎮守たる馬込の萬福寺に無事帰山した。是正に神通力による奇蹟なるべし。時恰も聖人の七百回忌なり。鬼子母神の霊験かくの如くあらたかなり。
 本鬼子母神日蓮聖人が参籠された九月十八日の翌朝謝誼として持佛を奉納されたものと伝えられている。
 当山では堂宇の守護神として歴代の住持が護持相伝したもので馬込の貴重な文化遺産である。



名馬「するすみ」の像



 当山開基梶原景時は源氏の武将その子原源太景季は父共々源平の合戦に出陣して数々の武勲を上げた 頼朝は恩賞として頼朝の名馬「するすみ」を景季に「池月」を佐々木高綱に与えた宇治川合戦での先陣争いは名勝負としてあまりにも有名である
 その「するすみ塚」は当山南二丁の処(南馬込三丁目臼田 坂上)に祝られている
 その昔馬込一帯は丘陵台地で馬の放牧が盛んであった「するすみ」は馬込の産とも云われて生地に葬り祀ったと云われている
 「するすみ」の紋所は鎌倉殿の「源氏笹りんどう」である
 この「するすみ」の像は当山創建八百年を記念して供養のため梶原家ゆかりの当山に建立たと云わしたものである



中門


阿弥陀如来及び両脇侍立像(非公開)

中尊 阿弥陀如来、像高90cm
脇侍 観世音菩薩、像高60cm
脇侍 勢至菩薩、像高60cm
当寺の本尊で、一光三尊の善光寺阿弥陀如来像である。いま光背は失われているが、脇侍二尊は頭上に宝冠をいただいている。
寺伝によれば、天文三年(1534)当寺は大井から移り当所に再興され、従来ここにあった密教寺院を改宗し、曹洞宗にしたといわれる。
本像の製作年代はその頃かそれ以前にさかのぼるものと思われる。



馬具(非公開)

当寺には古くから馬具の各部即ち、鞍(くら)一口・鐙(あぶみ)一掛・轡(くつわ)二掛がのこっている。
鞍は総体が金の梨子地で、前後の輪に高蒔絵の布袋(ほてい)和尚の図柄が見られる。
伝説では梶原景時が戦陣で用いたものというが、「新編武蔵風土記稿」では北条氏直の家臣梶原三河守のものであろうと記す。
いずれにしても、ここ馬込の地名に最もふさわしい中世以来の遺品と考えられよう。



板碑群(非公開)

当寺の境内で発掘された板碑は、およそ50基、このうち年代の読めるものだけが大体30基近くあり、元徳二年(1330)〔推定〕を最古とし、明応二年(1493)にわたっている。
板碑の主尊について見ると、はなはだ単純で主尊の見える板碑34基のすべてが弥陀一尊種子ばかりであり、単調性の最たるものといえる。
これだけ多数の板碑が一か所に集在することも珍しく、素朴な製作は板碑の末期的様相を示すものである。



山門


◆庚申燈籠




 享保三年(一七ー八)に、馬込村久保谷の庚申講の人々によって庚申供養のため建てられた燈龍である。
 燈龍型の庚申塔は、他地域にも類例があるが、それは銘文や三猿を彫ったものが多い。しかし、この塔のように竿石の正面に、庚申
信仰の本尊である青面金剛像を彫ったものは珍しく、貴重である。
 庚申講とは、「庚申の夜、寝てしまうと体内にいる『三尸』という虫が抜け出て、天帝に日頃の罪状を報告され命が縮められてしまう」と
いう言い伝えがあり、そのため眠らずに過ごし、『延命招福」を祈ったものである。
 村の仲間が徹夜で酒食をともにすることから、レクリエーションや村の連帯をはかる寄合にもなった。






◆馬込神明社

こちら完全に幼稚園のフェンスの中にあったのでお参りすることができなかった。
土日だとお参りできるかな?






◆神明児童公園




続く。