2020/05/26 中目黒散歩 01 目黒駅/誕生八幡神社/高福院/ホーチキ㈱本社/上大崎新橋/㈱東京カンテイ/三条実美邸跡

24時間勤務アケでJR目黒駅から東急東横線中目黒駅まで散歩。


ここではJR目黒駅北側エリアを散策。


◆目黒駅

スタートのJR目黒駅。






◆誕生八幡神社

前も来たことがある。
http://ovanrei.hatenablog.com/entry/20170219/1487568063



稲荷神社



鳥居とイチョウ




誕生八幡神社イチョウ(1)(2)
 本樹は、昭和四十五年に移転改築された八幡神社の本殿入口に向って両側に位置している。これまで道路拡張により三度も移植されたが、よく耐えて旺盛な樹勢をみせている。
 本社は、文明年間(1469~1487)筑前(福岡県)字美八幡より勧請された。
 (1)本殿に向って右側に位置し、幹廻り三3.25メートル、樹高14.5メートル。
 (2)は左側に位置し、幹廻り2.71メートル、樹高11.5メートルで、ともに推定樹齡250~300年である。
 双樹とも、 目黒通りに面し、 ビルに囲まれた中で、樹姿樹勢ともに良く責重である。







◆高福院



 当院は、もと高野山金剛峯寺塔頭の一院でありました。弘法大師高野山を開創された鎮守として各処に弁天さまを祀られました。高野山が疲弊して資糧が乏しくなったとき、弁天さまが宝舟を引いてきて山徒を救い給うたことから、その高福にちなんで高福院が建立されました。
現在の品川区上大崎のあたりは江戸時代、永峯六軒茶屋町という町名でした。白金方面からこの地にいたる目黒通りは、馬の背のようにだらだらと長い尾根の道で、それで永峯と言われ、目黒不動尊への参詣道にあたることから茶屋が六軒あったので、そのように呼ばれたと言われています。
 寛永(1624ー44)のころ、松平讃岐守候は、当地に下屋敷(現在の自然教育園庭園美術館)を造営されるにあたり讃岐(香川県)が生んだ偉人である弘法大師のお寺を建立しようと高野山に要請しました。そこで高祖院の良尊和尚が、高福院の寺名と舟引の弁天さまをもって東上したのが当院の起源であると伝えられています。
 開創時代の当院は、当時江戸に二ヶ所あった高野山の在番所の控寺として、遷化された僧侶方の墓所となっていました。やがて大名家の家中の方々が檀家となり、更には町の人々の菩提所として栄えたということであります。けれども明和九年(1772)江戸市中を焼き払った行人坂の大火のために、一切が灰塵に帰してしまったの でありました。
 現在の本堂は、天保の改革を断行した水野越前守忠邦侯が千駄ヶ谷の穏田の屋敷内に建立し、自ら勤念を凝らしておられた、今に残る棟木によれば天保十五年(1844)第十三世恵玉和尚が拝領して移築したお堂であります。安政の大地震関東大震災、今次大戦に良く耐えて今日に至っております。
 明治の廃仏毅釈の時代、当院は疲弊いたしました。しかし、第十四世浄晃和尚、第十五世浄誠和尚の努力で再興したのであります。殊に浄識和尚は、目白僧園の雲照律師に提揃を受け、お大師さまを背中に負うて托鉢しつつ布教し、多くの人々が檀家に加はったということであります。第十六世浄染和尚は、昭和十五年(1940)口スアンゼルスの高野山米国別院建立をはじめ数多の功績を残しましたが、昭和二十年召集された戦地で倒れました。
 昭和五十一年(1976)檀家の彫刻家村田歌野氏は、両親の菩提のために白衣観世音菩薩を制作し、寄進されました。そこで、檀家で文化勲章を受章した青山杉雨氏に萬霊供養塔の文字の揮毫をお願いしました。今日、白衣観世音菩薩萬霊供養塔は、後維者の無い方の納骨、供養のため、多くの方々のお役に立っております。
 昭和五十八年(1983)弘法大師御入定千百五十年御遠忌を記念して二十名の檀信徒とともに、百四十年ぶりに本堂を改修し、大法要を執行しました。
 平成五年 (1993)大正三年(1914)建立の客殿を大改修、更には庫裡を新築し、今次大戦で倒れ た第十六世浄染和尚をはじめ檀信徒英霊の五十回忌法要を厳修いたしました。
 平成十三年 (2001) 来、墓地の新設、改修に着手し、多くの方々に新しい檀家に加はって頂き、また加はって頂きつつあります。
 当山は、高野山に於ける開創以来壱千年、江戸出府以来、三百八十年の歴史を問したことになります。



山門





◆ホーチキ㈱本社

火災報知機のメーカー
東証一部上場企業だ!




上大崎新橋から。




◆上大崎新橋



奥に見えるのは目黒駅。










◆㈱東京カンテイ

家で調べてみたら、不動産専門のデータ会社とあった。
こんな大きなビルが建つんだからすごいんだろうね。






三条実美邸跡

wikiで「三条 実美」を調べてみた。
『三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字体三條實美、1837年3月13日〈天保8年2月7日〉- 1891年〈明治24年〉2月18日)は、日本の公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。
幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣内大臣貴族院議員などを歴任した。また内閣総理大臣を一時兼任している。 』
とあった。

三条実美 - Wikipedia









続く。