2020/06/02 池尻散歩 01 池尻大橋駅/目黒川起点/玉川通り・首都高速3号渋谷線/池尻稲荷神社/池尻庚申堂/東山公園

24時間勤務アケで、東急田園都市線池尻大橋駅から京王井の頭線池ノ上駅を経由して京王線東北沢駅まで歩く。


池尻大橋駅を中心に北から反時計回りで散歩。


◆池尻大橋駅




スタートの東急田園都市線池尻大橋駅





◆目黒川起点




北沢川と烏山川がここで合流、目黒川になる。




玉川通り首都高速3号渋谷線

下の広い道が玉川通り
上は首都高。




◆池尻稲荷神社




世にお稲荷様と申し上げている稲荷神社は宇迦之御魂神(ウガノミタマノカミ)をお祀りしたもので、今から約1300年前の昔、和銅四年の二月の初午の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮座したのが始まりです。
この神は、「稲がなる」イナリの別名が示すように五穀の成育や全ての産業を育成する広大な御神徳のあられる神様ですから、あらゆる人々の信仰をうけ、全国各地の神社や邸内に祀られています。
当池尻稲荷神社は、今から約350年前の明暦年間(江戸時代の初期)に旧池尻村・池沢村の両村の産土神(ウブスナガミ)として創建鎮座になったもので、それより村の共同生活と信仰の中心として現在に至りました。
俗信仰として古くから「火伏せの稲荷」「子育ての稲荷」として霊験あらたかと伝えられており、又、江戸時代の随筆集にも池尻村の産土神は特に氏子の加護をする旨の奇談が掲載されています。
当時は大山街道(現在の旧道)のほとりに、常光院の一隅に勧請されたもので、村民の信仰は勿論のこと、当時矢倉沢往還(今の二子玉川方面道路)と津久井往来(今の上野方面バス道路)の二つの街道からの人々が角屋、田中屋、信楽屋の三軒の茶屋(三軒茶屋の起源)で休憩して江戸入りする道筋にあり、又、江戸から大山詣での人々が大坂(現在、目黒区青葉台通り、三菱UFJ銀行青葉台分館を経て大橋への坂道、当時は大変な急坂で農民泣かせといわれた)を下った道筋で道中の無事を願い、感謝する人々の信仰が篤く、現今も遠方の崇敬者が多いのは当時からの御神徳のあらわれであります。
なお、境内にある手水舎の井戸水(涸れずの井戸)は京都伏見の薬力明神の神託による霊水として知られております。



稲荷神社





池尻稲荷神社







楽殿




涸れずの井戸




 この池尻稲荷神社の入口わきに、昔「涸れずの井戸」と呼ばれる井戸がありました。これはどんなに日曜りが続いても、涸れることなしに、いつも豊かな水をたたえていたので、こう言われていました。
 この前の大山道旧道を往き来する旅人や野菜を運ぶ農民ののどをうるおし、まわりの人々に大変尊ばれました。とくに、雨乞いのための大山詣の際には、必ずここに立ち寄ったと言われます。現在も、この水は、境内の中にあり、みなさんにおいしい水を提供しています。
 この像は、江戸後期近くの商店に奉公に来ていた少女が、奉公先の子どもといっしょに、ここに水を汲みに来た際、たぶんついでに「かごめかごめ」の遊びをしたであろう様子を想像してつくったものです。どうぞ昔の風景を思いうかべてみてください。





鳥居1



鳥居2







◆池尻庚申堂




現在区内で確認されている二百五体の庚中塔の中、二体がこのお堂に安置されている。一体は延宝八年(1680)の庚申の年。他の一体は次の申(サル)年の元禄五年(1692)の造立となっている。
この庚中塔は邪鬼をふんづけた姿の青面金剛とその下に三猿を彫った石仏である。
この石仏は江戸築城の際、集めた石工に造らせたと云われており江戸時代以降の石仏を特に庚中塔と呼ぶようである。
庚中信仰は古く平安の世に中国より伝わり時の貴族の間に広がり時代が江戸となり庶民信仰としてロづてにそのありがたさが農民の間にも受けいれられ三百有余年も連綿と継承されて今日のお祭り行事にまで続いている。
お祭りは毎年四月十五日目黒常円寺の往職により先祖の供養と参拝者の幸せを祈りお経をあげ盛大に行われている。
この長い歴史と先人の心を支えてきた庚申様を守護し地元の人々との親睦を深めて次の世代に引き継ぎたいものである。















東山公園





東山地区センターの由来

 ここに所在する土地と建物は筑波研完学圆都市移転機関の一つである建設省国土地理院跡地の一部を、昭和五十八年三月、国から払い下けや無償貸付を受けたものです。
 土地と建物の確保にあたっては目黒区民と区内各種団体により組織された筑波研究学園郁市移転跡地確保目黑区民連盟をはじめ関係国会議員・都議会議員・目黑区議会ならびに目黑区か一体となって、筑波移転の主旨であることを目標に、国有地の全画的地元解放運動を展しました。
 その成果として、公園・社会教育館・児童館・幼稚園を整備することかてききした。
 ここに、 筑渡研究学園都市移転跡地確保目黒区民連盟ならびに関係各位に対し深く感謝し、これらの施設を将来にわたって大切に使用していきます。




国土地理院跡地記念碑




 この地に昭和33年7月から昭和54年4月までの問、建設省国土地理院があり、国内の重要な測量 地図の作成等を行っていました。
 ここには、地球の形を決めるための測量の基準となる同際重力点があリました。




一等水準点 第11025号
 水準点は地図の作成や道路の建設等に必要な土地の高さを精密に測定するための基準となるもので、 全国の主な国道などに沿って、 約2kmごとに設置してあります。
 水準点の高さを繰り返し測定することによって、土地の上下変動を精密に求め、 地震予知や、 地盤沈下対策等に重要な役割を果たしています。




続く。