2020/06/02 池尻散歩 03 水車跡/清流の復活・目黒川/大橋/上目黒氷川神社・目黒富士浅間神社/東邦大学医療センター大橋病院/鷹狩の将軍が休憩した御用屋敷

ここでは玉川通り沿いの史跡・神社を巡った跡、懐かしの東邦大学医療センター大橋病院に向かい更に北に進む。


◆水車跡




 この地域は、近くを大山道(現在の玉川通り)が通り、物資の輸送に便利であり、また、三田用水、目黒川の水力にも恵まれていたので、江戸時代から明治にかけて水車が多くつくられました。中でもこの近くにあった大橋の加藤水車は有名でした。
 これらの水車は、精米製粉· 雑穀加工から、 薬種の精製やガラス磨き、煙草のきざみなど、水車動力を利用した小工場へと変わっていきました。しかし、これらの水車も、現在はどこにも残っていません。




◆清流の復活・目黒川







◆大橋

下は目黒川。
玉川通りの橋。
川幅よりも道路幅の方が圧倒的に広い。






上流側は緑道沿いに小さな流れになっている。







◆上目黒氷川神社・目黒富士浅間神社




 祭神は素蓋鳴命を主神とし、天照大御神菅原道真を合祀しています。 旧上目黒村の鎮守で、天正年間(1573~1592)に上目黒村の旧家加藤氏がこの地に迎えたといわれています。
 正面の石段は文化13年(1816)に造られましたが、明治38年(1905)に前を通る大山街道(現、玉川通り)を拡張する際に、現在の急勾配な石段に改修されました。境内には、花岡岩造りの4基の鳥居や小松石造りの2対の狛犬があります。
 また、石段の下には 「武州荏原郡菅刈(すげかr)荘目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保13年(1842)に建てられた大山道の道標があります。 大山道は江戸時代、石尊参り(現、神奈川県伊勢原市の大山への参詣)をする多くの人々が利用しました。
 境内には、目切坂上(現、上目黒1-8付近)にあった目黒元富士から石碑などが移され、「目黒富士」と称す登山道が築かれています。




富士浅間神社




 江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まる中、富士講という団体が各地で作られ、富士講の人々は富士山に登るほかに身近なところに小型の富士山(富士塚)を築き、これに登って山頂の石嗣を拝みました。
 目黒区内には二つの富士塚がありました。一つは文化9年(1812)に目切坂上(上目黒1-8)に築かれたもので「元富士」と呼び、後に別所坂上(中目黒2-1)に築かれたもう一つの富士塚を「新富士」と呼びました。元富士は高さ 12mで、石洞(浅間神社)を っていましたが、明治11年(1878)に取り壊しとなり、この氷川神社の境内に石桐や富士講の石碑を移しました。
 昭和52年( 1977) 7月に富士山に見立てた登山道を開き、 境内の一角を「目黒富士」と呼ぶようになりました。7月1日には山開きの例祭が行
われています。




稲荷神社







楽殿




階段上から玉川通り




鳥居







東邦大学医療センター大橋病院

2014年に鼻の手術で入院したことがある病院。
建て替えでだいぶ綺麗になったね!





以前建っていた場所。
現在は解体工事中で、新しい病院はもう少し先に行った道路左側に建っていた。




2014年8月17日に撮影した大橋病院



大橋病院コレクション(w

屋上




屋上




屋上




病室のベッド





◆鷹狩の将軍が休憩した御用屋敷




江戸中期、8代将軍・吉宗の頃には、この一帯に広大な御用屋敷があった。鷹狩場管理を主目的としたこの屋敷には、鷹狩りの将軍が度々立ち寄り、食事や休憩をとった。また鳥見役という管理人が常駐、周辺の村々の不穏な動きに目を光らせていたという。
明治以降、昭和2年までは陸軍の施設が多数あったが、戦後は住宅、文教地区に一変。







続く。