2020/06/02 池尻散歩 04 天覧台跡/御用屋敷跡/駒塲野公園(南側)/駒塲地蔵尊/地蔵堂/駒塲野公園(北側)

淡島通りに出て西へ進み、地蔵堂から北に進む。
駒場公園は南と北で分断されている。


◆天覧台跡




記念碑天覧台は 明治天皇親しく此の台上より陸軍乗馬学校(後の陸軍騎兵学校)卒業馬術明治25年(1892年)天覧なされてより延11回 大正天皇におかせられても4回行幸なされた御聖徳を偲び昭和3年11月14日陸軍輜重兵第一大隊が建立したものである
以来部隊の象徴として日夜心身の錬磨に努めていたが昭和20年8月復員発令に伴ない題字及び碑文を抹消放置したまま30有余年を閲した
此の碑を心の糧として軍の補給輸送に任じ祖国の平和を祈り異郷に散華された数多将兵の忠誠を顕彰し併せて陸軍輜重兵第一聯隊及び関連部隊の栄誉を永遠に伝えるため戦友相寄り相計ると共に明治神宮宮司高澤信一郎先生の題字復元を得て修理を完成した






記念碑天覧台は明治二十五年以来
明治天皇 十一回
大正天皇 四 回
に亙り陸軍乘馬学校卒業馬市天覧のため行幸なされた御聖德を偲び昭和三年十一月十四甘陸軍輜重兵第一大隊が之を建立した








◆御用屋敷跡




 江戸時代、この周辺は約5万5千坪(約18万㎡)におよぶ御用屋敷の敷地でした。この辺りに建っていたと推定される御用屋敷の建物は、徳川将軍がこの近くの駒場野へ鷹狩りに来た際には食事や休憩場所となり、また平素は狩場の管理や準備にあたる鳥見役人が詰めていました。
 御用屋敷を含むこの地域は元々、上目黒村の加藤家が拓いた土地でした。寛永3年(1626)に御用屋敷にあたる土地が加藤家より伊予宇和島藩伊達家へ献上され、同家の下屋敷地となりました。そして、幕府によって江戸周辺の鷹狩りの場が整えられるのに従い、享保3年(1718)に伊達家より下屋敷地は建物も含めて幕府へ差し出されて、 御用屋敷となりました。御用屋敷には、将軍家のための「御薬園」も設けられ、薬用の植物が栽培されていました。





◆駒塲野公園(南側)




◆駒塲地蔵尊




悪病も退散ー〆切(しめきり)地蔵
その昔、隣村で悪病が流行、大勢の人が死んだ。驚いた駒場の村人がこの地蔵様に祈ったところ、誰も病気に患
らなかった。以来、悪病締出し地蔵として、この名がついたという。









地蔵堂









◆駒塲野公園(北側)




みっけ♪




案内板




バーベキュー場

奥にバーベキュー場があった。




蛍橋・駒場野公園と駒場体育館などの由来碑




 ここの土地は、筑波研究学園都市移転機関の一つである東京教育大学農学部跡地の一部を、昭和五十九年三月 国から払い下げや無償貸付を受けたものです
 土地の確保にあたっては 目黒区民と区内各種団体により組織された筑波研究学園都市移転跡地確保目黒区民連盟をはじめ 国会議員 都議会議員 目黒区議会ならびに目黒区が一体となって 筑波移転の主旨である都市施設整備やコミュニティ基盤整備に資することを目標に 国有地の全面的地元解放運動を展開しました。
 その成果として 駒場野公園 駒場体育館および 道路を整備することができました
 ここに 筑波研究学園都市移転跡地確保目黒区民連盟ならびに各関係各位に対し 深く感謝の意を表し これらの施設が将来にわたって 多くの人びとに利用されることを願うものであります




水田の碑

 この水田は 明治十一年 ここ駒唱野に開校した農学校の農場の一部でわが国最初の試験田 実習田として 近代日本の発展を支える淵源の一をなした
 農学校は いくたびか学制の変更により 名称を変えて その歴史を継ぐ 学校が この地で発展を重ねた
 その間この水田は 近代農学研究発洋の地にふさわしい沿革をたどり 国際的協力のもとに初めて 本邦近代農業の研究と教育とが進められ 幾多人材の輩出を見た
 本校は 東京農業教育専門学校附属中学校として 昭和二十二年 開校以来 右の歴史の流れを継いで この水田を教育の場に活用する栄光に恵まれ 耕作を続けて 本年創立四十周年を迎えた
 そもそも 農は 人類生存の基をなす営みである 本校は この水田のもつ歴史的意味に想いを致し 幾多先輩の偉業を想起しつつ これを永く後世に伝えたいと考え ゆかりある方々の翁然たる協力を得て ここにこの碑を建立する
 なお建立に際し 地元目黒区の理解と協力のあつたことを録して 感謝の意を表する




ケルネル田圃




 ケルネル田園は、旧駒場農学校の実習田です。
 駒場農学校は、明治政府が近代農学に基礎をおく欧米農法をとりいれるために、農業指導者を養成する学校として明治11年に設置されました。
 札幌農学校アメリカ系統の農業技術を導入したのに対して、駒場農学校にはドイツ系統の農学がとりいれられました。
 ドイツ人のオスカー・ケルネルは、駒場農学校の教師として招かれ、 日本農業の特質を配慮しながら農芸化学を応用した実験を中心に土壌、 肥料などの研究と教育をおこない、 多くの成果を収めました。
 ドイツ人教師ケルネルの名をつけたケルネル田園は、新しい日本農業の指導者を育てた駒場農学校の実習地の跡として貴重な史跡です。
 なお、駒場農学校は、 後に東京農林学校となり、東京帝国大学農科大学等を経て筑波大学に継承されました。
 現在、ケルネル田園では筑波大学附属駒場中学校、高等学校により教育水田として生徒が実習しています。









駒場で花開いた近代農学

ここ駒場は、日本近代農学 発祥の地である。
明治十一年、農学校が誕生。ドイツ農法に範を求めた駒場農学校は、優秀な農業技術者を次次と世に送り出した。
この学校の日本人教師で、後に「明治三老農の一人」といわれたのが船津伝次平。彼は自ら実習田作りに汗を流すなど、体当りで農業の近代化に努めた。
ドイツ人教師ケルネルも異色の存在。わが国で初めて化学肥料の使用を試みた彼は、実験水田で研究に取り組んだ 。この水田は、「ケルネル田園」として今も残る。駒場農学校 はその後、大学農学部などに発展的解消。記念の駒場農学校碑が東大教育学部の構内にある。





 松涛駒場ギャラリ一散歩は、渋谷駅から道玄坂上の繁華街を抜けて、開静な町並みの松湯そして昔は馬の枚牧地であった駒場を経て、淡島通りまでの約3.1kmのみちのりです。 松涛美術館日本近代文学館、日本民芸館などをめぐる、 緑と文化の香りみちた散歩道です。

駒場の今昔
駒場一帯は台地で、かつては駒場野と呼ばれ、笹が一面に生渡り、所々に松林などがある原野が広がっていました。
そのため古代から中世にかけて東国武士たちの軍馬の放牧地として利用されてきました。江戸時代になると、鳥や獣が数多く生息する駒場野一帯は、 鷹狩り場となりました。
将軍の鷹狩りのたびに、田畑は人馬で荒らされ、そのうえ地元の農民たちは場所ごしらえや道普請、鷹の餌の昆虫集めなどに駆り出されました。江戸末期には幕府の軍事訓練所が計画され、 明治にはいると初めての陸軍観兵式がここ駒場野の原野で行われました。維新後日が浅かった
当時、軍事教練のスタイルもイギリス式、フランス式、ドイツ式とばらばらであたものでした。










続く。