2020/06/11 神宮前散歩 02 大山史前学研究所と大山柏邸跡/東京ユニオンチャーチ/神宮前第二歩道橋/原二本通り/表参道駅/徳富蘆花旧宅跡

表参道まで北東に進み、周辺を散策した後、それから表参道を通って北西へ進む。



◆大山史前学研究所と大山柏邸跡

神宮前五丁目緑地の中に説明板があった。



大山史前学研究所の由来と意義

 大山史前学研究所は1929年(昭和4)に公爵 大山 柏によって設立された私設の考古学研究究所である。大山は1923年(大正12)にドイツに留学し、ベルリン大学で史前学を学び、帰国後邸内に私財を投じて大山史前学研究所を開設した。その母体は邸内に開設されていた史前研究室である。さらに史前学会を組織して日本の新石器時代を中心とした学術雑誌「史前学雜誌」を刊
行するとともに100ヶ所以上の縄文時代の遺跡を調査し、その成果を次々に学界に発表し た。
 大山らの発掘した主な遺跡には青森県是川(これかわ)遺跡。宮城県沼津貝塚茨城県広畑貝塚。上高津貝塚。千葉果加曾利(かそり)貝塚。遠部台
(とうべだい)遺跡。埼玉県真福寺貝塚。神奈川県子母口貝塚。勝坂遺跡などがある。
 研究所には甲野勇、宮坂光次、 池上啟介、竹下次作、大給 尹らの所員がおり研究所の発掘調查や報告書の作成と史前学会の活動を支えた。1943年(昭和18)には貴族院議員であった大山 柏も北海道根室。 室蘭守備隊に出征し、研究所は閉鎖状態となり、1945年(昭和20)5月25日の空襲によって多くの貴重な文献や資料は邸宅や研究所とともに焼失した。
 しかし、戦前の皇国史観による歴史学への弾圧が続くなかで、大山 柏の研究は純粋な科学的精神によって貫微され、かつ今日の旧石器時代縄文時代の研究においても重要なものが多く、日本考古学の歴史のなかに占める意義はきわめて大きいものがある。


大山史前学研究所と大山柏(かしわ) 邸 跡

 昭和二十年(1945) 五月の大空襲によって焼失するまで、この場所には大山柏(元公爵・文学博士)の邱宅と主催する大山史前学研究所がありました。
 柏は、明治の元勲大山巖公爵の次男として明治二十二年(1889)六月、東京に生まれ、兄の高(たかし)が早世したことにより家督を継ぎました。軍人の家柄に生をうけた柏は、兄亡きのち、軍人の道を歩むことになります。大正十二年(1923) に近代戦史研究の名目でヨーロッパに留学し、あわせて考古学の研究も行っています。
 大正十三年(1924)に帰国Lた柏は、自邸內に史前研究室(のちに大山史前学研究所)を設立し、史前研究会(のちに史前学会)を組織LまLた。大山史前学研究所は、遺跡の調查研究、雑誌の刊行、出土品の展示、約一万冊にもおよぶ蔵書の閉覧など、現在の国公立研究所にも劣らない機能を持ち、戦後の日本考古学の基礎を築いたばかりでなく、そこに集った多くの若い研究者は、現在の日本考古学の躍進に寄与しています。
 戦後の柏は、西那須の別荘に移り住み、昭和四十四年(1969)八月二十日に他界しました。







東京ユニオンチャーチ

活動について調べてみたがよくわからない・・・・。
東京ユニオンチャーチのために - 日本キリスト教協議会




正面からは街路樹が邪魔をしてよく撮れなかった・・・・。





◆神宮前第二歩道橋











◆原二本通り





表参道駅





徳富蘆花旧宅跡






 徳富蘆花は、明治三十三年(1900)十月に、逗子からここに移ってきました。明治三十八年(1905)十二月再び逗子に移るまでの間に「思出の記」を完成させ、また「黒潮」「慈悲心鳥」「霜枯日記」などの作品を次々に発表しました。




続く。