前の日記、穏田神社後は西に進んでJR山手線の高架をくぐり、あとは線路沿いに北に進む。
宇田川は道玄坂下で渋谷川と合流している。合流点近くの宇田川河畔に、江戸の頃より枝ぶりも見事な松の大木があった。ここは旅の者や荷を運ぶ農民たちの憩いの場所で地蔵が一基あり、人々の信仰を集めていた(この地蔵は宇田川町十番地に現存する宇田川地蔵)。
昭和五年十一月東京市は区画整理のため、この松を取除く作業をさせたところ、関係者の中から負傷者が多く出て、“恐しい松”“「ご神木」”と騒がれた。そこで道玄坂の人々が弁財天と龍神の祠を造り、松と共に神南町にお祀りをした。松は移植したのち枯死したが、弁財天の効験はあらたかで、地元道玄坂町や近隣の人々から出世弁財天と崇められご信仰が盛んになった。
戦災の後、国鉄用地内に遷されたが、今回当社境内に遷座された。
渋谷の商業神として、又渋谷区発展並びにご家内繁栄のためご信奉される由来を記します。
土師家(はじけ)天満宮
土師家天神と稱(しょう)す 御祭神の本姓を冠し唱うる故ハシカ・ホウソウ病等に霊験ありとして安永・享和年間より明治初年頃迄遠方より人々訪ね来りて群参し賑うと古記は伝う 勿論学問の神様でもある
当社の氏子の一部である上渋谷字大原の地は明治四十年十一月陸軍代々木練兵場に指定され住民は永年住み慣れたこの地を離れるに際しその惜別の記念にこの灯篭を奉納したのである
その趣旨は台石に刻まれ往時の人びとの心情を今に伝えている
JR原宿駅が見える。
表参道駅方面から神宮前五丁目~神宮前六丁目を横断し、ここに至る道路は歴史が古く、江戸時代からあったものです。青山から代々木村に達するただ一つの幹線道路でした。
明治十六年(1883)に日本鉄道の品川・赤羽線(現在の山手線の前身)の建設が計画されました。その線路を敷くために、新たな切り通しがここに作られました。そのため、今まで使っていた大切な道路が切られてしまうということで、線路の上に架けられたのがこの水無橋です。陸橋として作られたものでは、東京でも古い方でした。その後、今の橋に架け替えられています。
続く。