2020/06/18 渋谷区東散歩 04 八幡坂/石像/金王八幡宮/東福寺/豊栄稲荷神社/天井桟敷館跡

明治通りから八幡通り(八幡坂)を東へ進んで金王八幡宮へ。
その後は八幡通りの北にある細い道を西に進んで明治通りに戻る。



◆八幡坂

坂下。



坂上
すぐ近くに金王八幡宮がある。




こちらの地図には「八幡通り」と書いてあるが、google mapには「八幡坂」となっていた。






◆石像




この写真の奥、行き止まり左側にある。
路地は八幡坂途中を曲がったところにあった。
特に説明板など無く、何の像なのかもわからない・・・・。






金王八幡宮



金王八幡宮社殿及び門

 社記によると、この神社は渋谷氏の祖、河崎基家が寛治6年(1092)に創建したといわれます。
現在の社殿は、徳川家光が三代将軍に決定したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに、慶長17年(1612)に造営を開始したものです。その後たびたび修理されましたが、江戸時代初期の建築様式をとどめている貴重な建物です。
 門は、明和6年(1769)と享和元年(1801)に造られたとする二説があり、江戸中期の建立には違いありませんが、その後何度かの修理を経て今日に及んでいます。
 このあたり一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居館跡で、東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、居館を囲んでいるうえ、かつては数ヶ所に湧泉があるという好条件を備えていました。
 しかし、その居館は大永4年(1524)、北条氏と上杉氏の合戦のとき、北条氏の一軍に焼き払われてしまったということです。
 平成二十二年には、社伝に附属してその価値をいっそう高める建造物として、渡り廊下が追加指定されました。



算額

算額(嘉永三年奉納)
算額(安政六年奉納)
算額(元治元年奉納)
 古代中国から日本に伝えられて、独自の発達をとげた和算の絵馬です。
 算額は、自ら作った問題を絵馬に記し、それを見た者が解答を試みる方式のもので、神社や寺院に奉納されました。添えられた図の多くは着色されており、装飾的な傾向から目立ちやすく、学業成就の祈願のほかに質問を提起して名を広めようとする意図もあったと考えられます。
 この三点は、武家地域と商業地域の接点であった宮益町付近の在住者により奉納されたことが注目されます。そのうちの安政六(1859)年の一点は、西条藩の武士により奉納されました。また、元治元年奉納の算額は、扇面の形をしたたいへん珍しいものです。




絵馬

絵馬 「大江山鬼退治之図」その一
絵馬 「大江山鬼退治之図」その二
 ニ面とも青山百人組から延宝三(1675)年、金王八幡宮に奉納されたもので、室町時代に流布した『御伽草紙(おとぎそうし)』に収められている「大江山酒呑童子(しゅてんどうじ)」に基づく絵馬です。
 この鬼退治物語を描いた絵馬は、各地の社寺に奉納されていますが、「討ち入り場面」(その一)と「鬼退治場面」(そのニ)のニ枚の絵に表現したものは作例としても珍しく、また、細密な筆致と豊かな色彩から見て絵画としても優品です。
 大きさはニ面とも縦78.5×横105センチメートルです。




玉造(たまづくり)稲荷神社



宇賀御魂命は、食物・農耕をはじめ商売繁昌, 殖產典業に関する信仰のほか、屋敷神としても多く祀られています。
御本社は京都伏見稲荷大社で、 稲荷社は全国に約三万社余あるといわれ、最も身近な神社と言えます。
また、天照皇大神のお食事を同る豊受大神と同神であるといわれています。
渋谷も明治の頃までは稲作が盛んで、多くの信仰を集めていました。都会となった現在でも、その信仰は変わる事無く受継がれています。





御嶽神社



御嶽神社は、 開運・商売繁昌の神として、特に客商売を営む人々の信仰を広く集めており、御本社は武州御激神社です。
御祭神の日本武尊は、古来より武道の守護神として崇められこの地が、武門の誉れ高き澁谷氏の居城であったことから、ここに祀られたと考えられます。
また、社前の狛犬一対と西参道の鳥居はかつて実践女子学園の校内にあった香雪神社より大東亜戦争後移設したものです。




金王丸御影堂



平安末期、 澁谷重家夫妻が当八幡官仁授児祈願を続けたとろ、八幡神霊夢により永治元年(1141)八月十五日に金王丸が誕生しました。
金王丸十七歳の時、 源義朝に従い保元の乱に出陣。 平治の乱ののち出家し、土佐坊昌俊と称し義朝の御霊を弔いました。
また、頼朝とも親交が深く鎌倉開幕にも尽力。 義経追討の命を受け、 文治元年(1185)十月二十三日夜、 心ならずも義経の館に討ち入り勇ましい最期を遂げました。
この御影堂には、保元の乱 出陣の折、自分の姿を彫刻し母に遺した木像が納められています。更に金王丸が所持していた「毒蛇長太刀」も当八幡宮に保存されています。




茅輪



茅輪の起源
神代の素戔嗚尊が旅の途中土民の蘇民将来(そみんしょうらい)に一夜の宿を求められた蘇民将未は貧しい身であったが快く尊をお泊めした
年を経て再び訪れ「若し天下に悪疫が流行した際にはちがやをもつて輪を作りこれを腰につけておればそれを免れるであろう」と教えられた この故事に基づき茅輪を作りこれをくぐれば災厄を免れるという信仰が生じた

〈唱え言葉〉
蘇民将来蘇民将来
思う事みなつきねとて
     麻の葉を
きりにきりても
    破いつるかな




楽殿



金王桜



 長州緋(ひ)桜という種類の桜といわれ、花弁は5~7枚ですが、雄しべが花弁化したもの交じっていて、一枚に一重と八重の花が入り混じって咲く大変珍しい桜です。また、一名を憂忘桜とも呼称されていたようです。
 この桜については、さまざまな伝承がありますが、「金王神社社記」によれば、源頼朝の父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節をしのび、頼朝が金王丸の名を後世に残そうとして、鎌倉亀ヶ谷の館から金王丸ゆかりのこの地に移植したものとされています。
 また、江戸時代に盛んに作られた地誌にも紹介され、郊外三名木のひとつとして有名であったことから、代々実生により植え継がれてきた系統の確かな桜と考えられます。





明治三十八年戦役記念碑



日露戦争の記念碑で凱旋軍人により明治三十九年八月建立。
揮毫は乃木希典陸軍大将。
忠魂碑でなく記念碑であること、又、傍らに十五、二十、二十五、三十年の碑が立っていることが大変珍しく、凱旋軍人等の周年の集いがあったことが窺える。

乃木希典(のぎまれすけ)
嘉永二年(1849)十一月十一日 長州藩支藩 長府藩上屋敷(現 六本木)で出生。
陸軍大将、第十代学習院院長として昭和天皇,皇族子弟の教育に従事。
明治天皇御大喪の大正元年(1912)九月十三日夜、妻 静子とともに殉死。
乃木家の祖 佐々木秀義は、平治の乱に敗れ所領を失い奥州へ落ち延びる途中、滋谷重国に引きとめられ、その庇護を受け重国の娘を娶り約ニ十年を渋谷荘で送った。



鳥居






東福寺




東福寺の梵鐘
宝永元年(1704)の銘があるこの梵鐘の周りには、金王八幡宮の縁起など渋谷の歴史が刻まれています。その一部に、
後冷泉帝のとき、 渋谷の旧号谷盛の庄は親王院の地にして七郷に分る。渋谷郷はその一なり
とみえるので、渋谷の地を谷盛の庄とも呼んでいたことがわかるのです。なお、享保二十年(一七三五)に版行された『江戸砂子』には、渋谷・代々木・赤坂・飯倉・麻布・一木・今井を谷盛七郷と呼ぶ、と書かれてあります。また、他の史料によると、上・中・下の渋谷三ヶ村と、上・中・下の豊沢村に隠田を加えた七ヶ村を渋谷郷と称したといいます。

木造薬師如来坐像
 本像は、左手に薬壷を載せて坐る薬師如来像です。量感を控え薄身の上半身をやや丈高につくるすがたは、着衣の折り目も流麗で、平安時代後期に一世を風靡した定朝様の作風を示しています。ただし、角ばった顔や体部の表現に、やや強い彫法が見受けられますので、本像の制作は12世紀末から13世紀初め頃と推定されます。
 構造は針葉樹材を用いた寄木造で、目は彫眼とし、漆箔仕上げとします。像底に後補の板を貼るため、像内を確認できませんが、深く刳り上げられているとみられ、すべてが丹念に仕上げられている作といえます。なお、鼻や口に彫り直しとみられる部分や頭頂部の螺髪に欠けてなくなっている箇所も見られますが、総じて良好な保存状態です。
 本像の伝来については、詳らかにはしませんが、当寺の本尊には、江戸時代後期の阿弥陀三尊像が安置されているので、客仏として当寺に移されて来た時期があったと思われます。本像は、院政期の都の作風をうかがわせる、区内屈指の優作と認められます。

銅造菩薩立像(善光寺阿弥陀如来脇侍
本像は、宝冠とその手の形から、いわゆる善光寺阿弥陀如来像の脇侍像にあたると考えられます。銅製で、鍍金は認められません。頭部から足先までが一鋳製にみえますが、現状は補修の痕跡をとどめています。頭部には、火を被った痕が確認でき、その痕跡を残さない体部とは別に鋳造されたとみられます。宝冠章面の標識が確認できないので、左右脇侍のいずれにあたるかは判断できません。信州善光寺の本尊阿弥陀三尊像に基づくという銅造阿弥陀如来の一光三尊形式の流行は、鎌倉時代に入って高まります。頭部は宝冠のかたちや端正な顔立ちから、鎌倉時代後期の表現が観取でき、類例から十三世紀後半の作とみられます。
一方、撫で肩で細身の体部も、まとまりのある造形を示しており、南北朝時代を降らないとみられます。鋳継ぎの際に頭部をやや上げ過ぎるかたちになったものの、全体の姿形は自然でつながりもよいものです。中世にさかのぼる善光寺阿弥陀如来像の脇侍像が、区内に伝存する例はほかにありません。加えて本像は、通称「矢拾(やひろい)観音」として「江戸名所図会」等にも紹介されております。その霊像が木像であったという「寺社書上」(文政十一年)の伝えもあり、本像が「矢拾観音」であると確認できませんが、その可能性も否定できず、今日まで信仰を集めています。

木造不動明王立像
本像は不動明王の通例にしたがい、上半身に条帛(じょうはく)をまとい、裙・腰帯を着け、右手に利剣、左手に羂索を持ちます。興味深いのは、本像が玉眼を嵌めているように、中世に入る制作とみられるものの、頭部と体部を通して一木から彫成するという古様な構造としていることです。そのため、肉厚で重厚なつくりとなっていますが、両手の肘を強く張るとともに、腰を右に振り、右足を側方に開いて岩座の上に立つことにより、動きを表現しています。
 形状で注目されるのは、頭頂部に載せた蓮台の上に八弧形の線刻を施している点で、これは髪房を束ねて表現する莎髻を簡略化した意匠と思われます。また巻髪とし、左目をすがめ、牙を上下に出し口唇をゆがめているのは天台系の不動明王の図像に基づくものです。その一方で、頭頂部に蓮台を載せるのは、真言系の形像を取り入れたもので、天台・真言双方の要素を交えたこの種の例でも特異な例にあたり興味深い作です。
 本像は、その作風から十三世紀半ば頃にさかのぼると推定され、区内に所在する不動明王としては、最古例に属する優品であります。本体の保存状態が良いのも幸いであり、岩座や迦楼羅焔光は後補であるものの、当初の姿をよく伝えています。


鐘楼





山門





◆豊栄稲荷神社



庚申塔

 庚申信仰は江戸時代に庶民の楽を兼ねて流行し、それによって各地に庚申塔が建てられました。
 ここには十三基の庚申塔が集められていますが、像容はまちまちです。
 一般的に見られる六臂(ろっぴ)の青面金剛像だけのもの、その下部に天邪鬼や三猿を配したもの、三猿のみのもの、及び「為庚申供養」と文字だけを刻んだものなどがみられます。これらは町や村の辻に建てられたこともあって、右から七番目の塔には「めぐろこんわう道」と刻まれていて、道しるべを兼ねていました。また、すべての塔の下部に建立者の名前が刻まれていますが、右から三番目のものには渋谷伝左衛門以下同姓の名が見え、旧領主渋谷氏との関連があるかどうか興味がもたれます。
 庚中信仰の内容については、境内の「庚申塔略記」をお読みになって下さい。



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鳥居






天井桟敷館跡








google mapのマークは上の写真のところあたり。
説明板などは何もなかった。

wikiで調べた。
天井桟敷 (てんじょうさじき)は、かつて日本に存在したアングラ劇団。寺山修司主宰で演劇実験室を標榜した前衛演劇グループ。状況劇場唐十郎、早稲田小劇場の鈴木忠志黒テント佐藤信と共に、1960年代後半から1970年半ばにかけて、小劇場ブームを巻き起こした。』
とあった。
場所に関しては・・・
『1969年3月15日に渋谷並木橋に日本初のアングラ専用の劇場「天井桟敷館」(デザイン:粟津潔)を開館させる』
とあったので、この辺りで間違いは無いようである。




続く。