ほぼ東海道新幹線沿いに東へ移動。
昔、この辺り一帯は、江戸末期に藤摩の国から孟宗竹を移入栽培し、竹の子の産地として知られました。
また、目黒川にそって三竹耕地と呼ばれ、付近農民の入会地であり、御獄権現が詞られていた社があったため、「三岳」または「三竹」と呼ばれていたので、その地名をとっうて橋名としました。
◆第一三共㈱品川研究開発センター
wikiで調べると・・・。
『第一三共株式会社(だいいちさんきょう)は、東京都中央区日本橋本町に本社を置く、日本の製薬会社である。 』
とあった。
東証一部上場企業。
テレビCMでも良く見る企業だね!
◆東海道線(23)目黒道ガード
こちらはくぐらずに手前を左折する。
此ノ地ハ本邦最初ノ洋式硝子工場興業社ノ跡デアル 同社ハ明治六年時ノ太政大臣三条実美ノ家令丹羽正庸等ノ発起ニヨリ我国ニ始メテ英国ノ最新技術機械施設等ヲ導入シ外人指導ノ下ニ広大ナ規模ト組織ニ依テ創立サレタモノデアル
然ルニ最初ハ技術至難ノタメ経営困難ニ陥リ同九年政府ノ買上ゲル所トナリ官営ノ品川硝子製作所トシテ事業ヲ再開シタ 同十七年ニハ再ビ民営ニ移サレ西村勝三其ノ衝ニ膺リ同廿一年品川硝子会社トシテ再興ノ機運ヲ迎ヘタガ収支償ハズ同二十六年マタマタ解散ノ已ムナキニ至ッタ
其ノ間育成サレタ技術者ハ東西ニ分布シテ夫々業ヲ拓キ斯業ノ開発ニ貢献シ本邦硝子興業今日ノ基礎原動力トナリ我国産業ノ興隆ニ寄与スル所頗ル大ナルモノガアッタ
吾等ハ其ノ業績ノ偉大ナルヲ偲ビ遺跡ノ保存ヲ図ッタガ會々此ノ挙ニ賛シタ 三共株式会社ハ進ンデ建設地ヲ無償提供サレタ 斯クテ有志ノ協賛ト相俟ッテ今茲ニ由緒アル発祥地ニ建碑先人ノ功ヲ不朽ニ伝フルヲ得タノデアル
官営品川硝子製造所跡
日本における近代ガラス工業発展のもとに なったのは、明治六年(1873)に東海寺境 内に創設された興業社(こうぎょうしゃ)である。
興業社は、明治九年(1876)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり全国のガラス工業の発展に貢献した。明治十八年 (1885)には西村勝三らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため、明治 二十五年(1892)に解散した。 昭和三十六年(1961)に官営時代の建物は取り片づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は明治初期の貴重な建築物として、 愛知県犬山市の明治村に移築され保存され ている。
続く。