2020/07/07 南品川散歩 02 馬頭観音堂/海蔵寺/京急高架/妙蓮寺/本光寺/清光寺/大龍寺

ゼームス坂通りを進んで第一京浜に出る。
お寺が多いエリアだ。


馬頭観音

セームス坂通りの途中にあった。






海蔵寺



 山門を入って右手奥の塚は江戸時代、品川にあった溜牢 (牢屋) でなくなった人々の遺骨を集めて、宝永五年(1798)に築かれたものです。鈴ヶ森刑場で処刑された人の遺骨の一部も埋葬され、「首塚」と呼ばれるようになりました。また、この塚にお参りすると頭痛が治るということから、古くより「頭痛塚」とも呼ばれています。この塚には天保の大飢縫(1833~39)で亡くなった二百十五人を把る「二十五人塚」も合葬されています。
 このほか、当寺院には慶応元年(1865) に建立された「津波溺死者供養塔」や、大正四年(1915)の「京浜鉄道繰死者供養塔」などがあります。 いずれも引き取り手のない死者や不慮の死をとげた者の霊を供養してきたため、本寺は俗に品川の「投込寺」と言われました。



宝蔵稲荷神社



宝蔵稲荷社は稲荷の神と同一とする夜叉神の吒枳(タキニ)尊天を本尊とする明治二十三年九月町内稲荷講中により旧跡に再建され火伏の稲荷として霊験あらたかで土地の人々の安全守護神として尊崇され春秋二季に大祭が盛大に行われる。



『吒枳(タキニ)尊天』を調べてみたがなかった。
おそらく『吒枳尼』で良いと思う。
荼枳尼天 - Wikipedia







京急高架

こちらはくぐらず手前を左に行ったところに下記の『妙蓮寺』があった。







◆妙蓮寺


妙蓮寺典籍

 当寺の典籍は、文書六点を含む十七点で、享保年中から明治に至る間(1720頃~1885頃)に作成された写本、稿本(こうほん)(手書きした本)類である。
 いずれも顕本法華宗の教義・門流・先師に関するもので、特に典籍の「宮谷檀林玄能歴代本山法主記」のように、現在では孤本(こほん)となっているものもある。また、 文書の中には、創建(弘安八年=1285)以来から品川地域では大寺であった同宗の天妙国(てんみょうこく)寺に関する史料が含まれているのも興味深い。
 これらは、顕本法華宗の宗門研究にとって大変貴重な史料である。


高木正年先生之像

wikiで調べてみた。
『高木 正年(たかぎ まさとし / せいねん、1857年1月4日(安政3年12月9日) - 1934年12月31日)は、日本の政治家。日本初の視覚障害をもつ衆議院議員であった。 』
とあった。
高木正年 - Wikipedia


しながわ百景


山門







本光寺


木造日蓮聖人坐像

附 像内納入造像願文 一通
  像内納入法華経  八巻
 この日蓮聖人坐像は、像の高さ68.5cmの堂々たる肖像彫刻である。本像は、像内に納入された文書および法華経八巻によって造立の経緯と開眼年代が明らかで、京都・上行寺の祖師像であったことが判る。このように造立の経過のわかる彫刻は区内には数少ない。
 また、像自体については、面部が後世の補作となっている点こそ惜しまれるものの、量感に満ちた体躯や袂先(たもとさ)の表現、着衣に見
られる織密な唐草盛り上げ文様など、中世の祖師像の表現をよく伝える江戸時代初期の貴重な作品である。


五輪塔


三重塔


鐘楼


山門







◆清光寺









◆大龍寺(だいりゅうじ)



紙本墨画淡彩蘆葉達磨図(しほんごくがたんさいろようだるまず)v
縦256.0cm、横81.0cmの軸仕立である。
頂上に市女笠(いちめがさ)を冠り躯(からだ)は粗末な法衣で包み、葦の上に立った菩薩達磨の姿である。作者は黄檗僧独堪性瑩(おうぼくそうどくたんしょうけい)で、江戸時代初期の天和二年~元禄十六年(1682~1703)頃の作である。

絹本着色羅漢図双幅(けんぽんちゃくしょくらかんず)
双幅とも縦115.4cm、横45.0cmの軸仕立てで、十六羅漢のうち、第六跋陀羅尊者(ぼたらそんじゃ)と第十半托迦尊者(はんたかそんじゃ)を別々に描いたものであり、文化十四年(1817)に谷文兆(たにぶんちょう)が描いたものである。
谷文兆は、中国画を研究し、狩野・土佐・南画・洋画の手法を折衷して新画風を創造した江戸時代後期を代表する画家である。

紙本墨画文殊騎士図(しほんぼくがもんじゅきしず)
縦52.0cm、横20.2cmの軸仕立てである。
獅子に騎乗した文殊師利菩薩の姿を俳画風に描き、上部に賛が書かれている。文政七年(1824)義梵仙崖(ぎぼんせんがい)の作で、近年本寺に納められたものである。
仙崖の作風がよくわかる作品である。
大龍寺は、時宗東光寺として寛正四年(1463)に開創したが、元禄十六年(1703)中国僧慧林を開山として黄檗宗に改宗した。



木像釈迦如来及両脇侍像
中尊の釈迦如来は像高31.4cm、左右の脇侍はそれよりもやや小型、三尊とも一木造(いちぼくづくり)で金泥塗(きんでいぬり)の坐像である。
中尊は螺髪(らはつ)が大きく、両手を禅定印に結ぶ。向かって右の脇侍は右手を腹前、左手を胸前に挙げ、頭部はともに宝冠をいただく。この両脇侍像は、いずれも普賢菩薩と思われる。
元禄十六年(1703)、本寺が時宗から黄檗宗(おうばくじゅう)に転じたとき、京都宇治の万福寺本尊の胎内仏を秒したものといわれ、三尊を一つの厨子(ずし)に収めて当寺の本尊とした。

伽藍神倚像(らんじんいぎょう)
像高73.2cm、寄木造・彫眼の像で、膝を開いて椅子に腰をかける姿勢。宝冠と衣部は金泥塗である。
中国では唐・宋時代から泰山府君(たいざんふくん)等を寺院の守護神とし、わが国では平安時代以来、春日明神、山王権現等の神を祀る風習があった。
この伽藍神黄檗宗(おうばくじゅう)の慣例によったものと思われ、本尊が施入されたとき、同時に本堂に安置されたものと伝えられる。


円珠稲荷


不休地蔵尊


大龍寺のシイ



 本堂前の参道脇にあり、根元から四本に分かれた幹は、美しい風格のある樹勢を形造って いる。根回り3.23m、樹高9.5m、樹齡は推定約百五十~二百年で、最近になって結実するようになった。シイは本州(福島県新潟県以西)の暖地に生ずる常緑広葉樹である。
 本区内におけるシイの木としては大樹であり、樹勢もよく、環境的にも患まれた場所に生育している。


山門






続く。