2020/07/07 南品川散歩 08 問答河岸跡/品川第2踏切/八ツ山橋/高山稲荷神社/品川駅

旧東海道を北進。
第一京浜と合流し品川駅でゴール。


◆問答河岸跡



問答河岸由来記
寛永の昔 徳川三代家光 将軍 勇壮活達の明君也
宗彭沢庵 禅師に帰依して 品川に萬松山東海寺 を建つ
寺域五萬坪寺領五百石 殿閣僧房相連って輪奐美を極む
将軍枉駕年間十数度法を聴き 政治を問う 厚遇思う可し
将軍一日天地丸に座乗し品海を渡り目黒河口に繋船して東海寺に詣し 喫茶法話
薄暮に至って江戸城に還らんとす 禅師河畔に立って是れを送る
将軍乗船に臨んで禅師に参問して曰ク
海近くして如何が是れ東海寺と 禅師答而曰ク大軍を指揮して将軍と言が如しと
将軍一笑 纜を解いて而て還る
時移りて三百年地勢亦変じ河海遠し然れ共 市人傳えて問答河岸と称す
一世の英主 一代の名僧 諧謔談笑の蹟
菊鮨總本店主其煙滅を惜み石に録して永世芳を傳えんとす 亦可しからすや







◆品川第2踏切





撮り鉄しちゃった(w


近くにあった案内






◆八ツ山橋






近くにあった地図






◆高山稲荷神社



高山稲荷神社は京都伏見稲荷大社の御分霊・正一位福聚稲荷大明神の御分霊を祭祀しております。
往時の文献によれば今から凡そ五百年前当地域に神社の建立を御勧請し神社を建立したと記されております。
当時高輪の地形は小高い丘陵で社殿は二百数十段の石段の山峰に位置し山上の神社故高山神社と称されたと伝えられております。
現在の社殿前方品川駅一帯は見晴らすかぎり海辺がつづき遠く房総方面より往き来する舟の目標となったものと記されております。(寛政年間の江戸名所図会参照)
明治初期毛利公爵が当地に邸宅を構えるに及び同家より広大な敷地の寄進があり境内からの眺望は目を見張るものがあったと思われ明治天皇が京都より江戸への遷都に際して当所で御休息・御野立をなされたと伝えられて居ります。(毛利家所蔵文献参照)
大正十二年関東大震災後国道の拡張に伴い約十五米の境内を失い参道も(旧参道は現在地北側約三十二米先の石畳道路に面しており南方へ向って石段を昇った)現在の方位に移りましたが歴史の流れと共に社殿の損傷も甚しく昭和の初期諸先輩の努力により高山神社奉賛会を設立し氏子一同の熱心な御協力により昭和六年九月吉日社殿の御造営を落成し現在の荘厳な新社殿を仰ぎ見るに至った。当社は古来高輪南町・下高輪町(旧中町)の鎮守の神として氏子町民の信望を集め毎年九月十五日を期し賑やかに大祭の行事を執行致しております。
昭和六十三年に至り約六十年間風雪に耐えた神社大鳥居並社殿内外の大改修の必要にせまられ茲に奉賛会会員並氏子一同の絶大なる御協力・御奉納により改修の完成を見るに至った。
当神社は数百年来鎮守の神として氏子町民の守護神として信望を集め強いては全人類の平和と幸福を祈り国家の隆昌と子孫の繁栄に御加護下さる由緒ある神社です。


 「おしゃもじさま」は、縁結びの神として祀られているが、その名の由来はわかっていない。高輪の台地上にあった「石神社(別名『釈神社』)」が、高山稲荷神社に合祀されたもので、『江戸名所図会』によれば、石神横町(しゃくじんよこちょう)といわれていた。これを誤って里俗で「おしゃもじ横町」といったとされ、この名からつけられた名である可能性もある。
 このおしゃもじさまは、もとは切支丹燈籠で、一説には高輪海岸で処刑された外国人宣教師を供養するために建てられたといわれ、また海中より出土したともいわれる。切支丹の隠れ信仰があったことを物語る資料である。



近くにあった地図





◆品川駅

ゴールのJR品川駅。





雨が本格的に降るかな?
とおもっていたが、本格的に降ることはなく、涼しくて歩きやすかった。
お寺があんなに密集しているとは思わなかったなあ。
京急の東側エリアが残っているので近いうちに散策すると思う。