2020/07/29 白金台散歩 02 宝徳寺/大信寺/高松くすのき公園/旧細川邸のシイ/高輪皇族邸/高松児童遊園/葭見坂

桜田通りまで出た後は魚籃坂を少し戻ってわき道に入る。
その脇道をクネクネしながら南下。
高輪皇族邸から西へ進んで葭見坂へ出る。



◆宝徳寺





◆大信寺


石村近江顕彰碑



三味線は今日わが国楽器の代表として、その名広く世界に知られるに至っている。確実なる記録によれば、三弦は第十三世紀に中国の元に起こり、第十四世紀末福建省民によって琉球に伝わり、第十六世紀中頃貿易船によってわが堺に伝来した。当時はわが琵琶法師によって苦辛研究の末、桃山時代の初に今日見る如き日本の三味線が完成した。その後専門の制作師現はれ益々その芸術性を高めつつあったが、寛永年間に至り二代石村近江は京都より江戸に移り、その後代々石村近江の名を継ぎ代十一代に至る。特に二代より五代に至る間は稀世の名匠相継ぎ、古今無双の名器を多く世に出した。これによって三味線を用いる邦楽、浄瑠璃地唄長唄等驚くべき高度の発達を遂げることが出来た。実にわが近代邦楽の異常な発展は、これ等代々の石村近江の功績によると申されてよい。ここにその功績を頌してこの碑を建立するものである。


史跡 石村近江

江戸における三味線制作の始祖



 三味線はわが国の代表的な楽器として、世界に知られています。
 十三世紀ごろ中国に三絃としておこり、琉球に伝わり、十六世紀ごろ摂津の堺(大阪府)に伝来して、京阪地方の琵琶法師に用いられていました。
 その後種々の技法を取り入れた石村検校と、それを継いだ石村近江は、日本の三味線として、多数の名器を相継いで世にだし、邦楽の発展に寄与しました。
 三味線の始祖とされる石村近江は、号を浄本、通称を源左衛門としい、京都から江戸に移住して三味線を完成し、「浄本近江」と呼ばれた名工でした。
 寛永十三年(1636)三月二日に死去しました。
 なお、石村家は代々近江の名を継ぎましたが、特に二代浄本から五代までは名匠相継ぎ、古今無双の名器を世に出しました。
墓は本堂裏手の墓地にあり、記念碑も建っています。


山門





◆高松くすのき公園





◆旧細川邸のシイ



根本もすごい・・・。



 高輪支所の丘陵上に独立する単木で、樹高10.8m、幹囲り823m、枝張りは東に6.7m、西に2.7m、南に5.6m、北に5.8mを測る巨樹である。幹の下部に大きな空洞があったため、昭和五十年には大規模な外科手術を実施した。
 スダジイは、別名イタジイともナガジイとも呼ばれ、本州の福島県新潟県以南、四国、九州、沖縄に分布するブナ科の常緑高木である。葉は長楕円形で先は尖り大きな鋸歯菌がある。果実は先の尖った卵円形でニ年目に熟し食用になる。 古くは材は建築や家具用に使われていた。
 旧細川邸とは、肥後熊本藩細川家の下屋敷のことであり、元禄十六年(1703)ニ月四日、赤穂事件の大石内蔵助良雄・吉田忠左衛門兼亮・小野寺十内秀和・原惣右衛門元辰ら十七人が切腹を命ぜられたところとして、屋敷跡は東京都指定旧跡に指定されている。





高輪皇族邸




広大で警官がいっぱいいて写真が撮りづらかった。
航空写真で見るとかなり広いね。
黄色い丸のところが写真を撮った所。
現在、上皇上皇后さまがこちらに仮住まい中とのこと。





◆高松児童遊園






◆葭見(よしみ)坂

坂上



坂途中。



坂途中。



坂途中。(階段から下の部分も同じ坂になるのかは未確認)



坂下。



標識がないので、調べた。
「葭見坂、町の西辺を北へ下る、白金村の畑地、昔は葭原なりしを坂より見下ろせしよりかく名付くと云伝ふ。」
東京府志料』より





続く。