2020/07/30 三田散歩 01 高輪ゲートウェイ/高輪大木戸跡/泉岳寺駅/フレンズセンター/正山寺/三田台公園/荘厳寺

お休み♪
JR高輪ゲートウェイ駅からJR三田駅まで散歩。


ここでは高輪ゲートウェイ駅から第一京浜に出てから北へ。
高輪大木戸跡から西へ向かう路地に入り、聖坂通りを北に進んで周辺を散策。


◆高輪ゲートウェイ



スタートの高輪ゲートウェイ駅。







◆高輪大木戸跡




 高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710)に芝口門にたてられたのが起源である。享保九年(1724)に 現在地に移された。現在地の築造年には宝永七年説・寛政四年(1792)など諸説がある。
 江戸の南の入口として、道幅約6間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、 治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
 天保二年(1831)には、札の辻(現在の港区芝5-29-16)から高札場も移された。この高札場は、 日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の6大高札場の1つであった。
 京登り、東下り伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色 もよく月見の名所でもあった。
 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅5.4m、長さ7.3m、高さ3.6mの石垣のみが残されている。
 四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として 重要である。震災後「史蹟名勝天然紀念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。








泉岳寺駅



都営地下鉄泉岳寺」駅。







◆フレンズセンター

一般公開で一度お邪魔したことがある。
2018/10/27 品川散歩 02 キリスト友会フレンズセンター - ovanの社会科見学







◆正山寺



烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)



烏枢沙摩明王は西暦700年ごろから浄穢(じょうえ)を祈って信仰を集め忿怒(ふんぬ)の形相は厄や魔を遠ざける守護尊として丸太れた。
こうした性質から現在でも、受胎祈願、安産祈願、厄除祈願などの本尊として信仰されている。
当寺には8臂(8本の腕)の像が厨子に入って安置されている。







◆三田台公園


三田谷公園について

昭和53年編文、古塘時代の住居跡と貝塚断脂が港区三田4丁目19番で発掘されました。
これを永く保存すると共にその当時の生活環境を身近に理解していただくため これらを再現しました。又、非常用の井戸、芝生広場、身障者の方も安心してご利用していただくための施設整備されていますので大切にあつかいましょう。




 縄文時代の人びとは、高輪の大地の下に広がる海から多くの貝をとってきて食べました。貝ばかりでなく、鳥やけものを食べたあとの骨や、家の中のごみ、こわれた土器や石器のかけら、炉からかき出した灰やもえざしの炭などもいっしょにすてられました。こうして貝塚ができあがったのです。ですから、貝塚を調べると、当時の人々の食べていた食物の内容や、生活のありさまがよくわかります。ここにある貝塚は、伊皿子貝塚のなかで厚く貝がつもった部分を、接着剤で接合してはぎとり、保存したものです。黒くしまのように横に走っている層は木炭の層、ねずみ色になった貝は火で焼けて変色した貝です。カキばかりが集まっている部分、アカガイに似たかたちをしているハイガイが集まっている所など、貝層はいろいろな部分からできています。さまざまな層が、何枚もかさなりあって堆積しているありさまは、縄文時代の日日の生活のつみかさねを無言で示してくれます。



 野にけものを追い、海辺に魚や貝を求めて縄文時代の人びとは日を送っていました。この時代の人びとはまだ米を作ることを知らず、自然が与えてくれるさまざまな恵みによって生活を支えていたのです。そんなくらしが今からー万年くらい前から、米作りのはじまるニ千年前までの八千年間もつづきました。人びとの力はまだよわく、 自然の中で生きていくには多くの人びとがお互いに協力する必要がありました。狩りをするのも、家をたてるのにも、村の多くの人びとの参加が必要でした。ここに復元されている竪穴住居は、今から四千年前の縄文時代後期のもので、伊皿子貝塚の貝層の下から発見されました。地面を堀りくぼめたり、柱にするための木を伐るには、村の男が総出でかかったことでしょう。屋根をふいたり、床に小石をしきつめたりする作業もありました。この住居からは、当時の生活のありさまだけでなく、 人びとがいかにたすけ合いながら生きできたかを知ることができます。


竪穴式住居




 握槌(にぎりずち)で木を削って道具を作る父親、食事の支度をする母親と少年、炉では具がぐつぐつと煮えています。壁ぎわには、木の実が蓄えられた土器や狩猟のための弓矢、床には石の鏃(やじり)などがあります。木の実などの調理に使われた石皿と磨石、衣服にするためのシカ皮も見えます。
 自然が与えてくれる様々な恵みを利用して、当時の人びとの生活が成り立っていたことがわかります。



1400年前の伊皿子(古墳時代



華頂宮邸跡 井戸

工事用のフェンスがあり、見ることができなかった。

wikiで「華頂宮」を調べた。
華頂宮(かちょうのみや)は、慶応4年(1868年)に伏見宮邦家親王の第12王子、博経親王によって創設された宮家。 現当主は華頂博一である。』
『屋敷は現在の東京都港区三田四丁目16番20号に所在した。現在は屋敷跡は児童公園(亀塚公園)となり一般に開放されている。 』
華頂宮 - Wikipedia




みっけ♪
公園のすぐ前にあった。








◆荘厳寺


鐘楼


山門






続く。