2020/07/30 三田散歩 06 札の辻歩道橋/水準点/札の辻/バンダイナムコ未来研究所/都営三田線三田駅/田町駅

第一京浜を北上してJR田町駅でゴール。


◆札の辻歩道橋

L字型の歩道橋。
下は第一京浜









歩道橋からクウェート大使館が見えた。



同じく歩道橋から東京タワーが見えた。







◆水準点

google mapのマークの位置は正面に写っているビルの前あたり。
それらしいものを見つけることができなかった。



マークの場所をいろんな角度で撮ってみる。








◆札の辻

上記、歩道橋と水準点のある交差点が「札の辻」
この碑は「水準点」の近くに立っていた。

旧町名由来板
横新町(よこしんちょう)
 むかしは荏原郡上高輪村と呼ばれていました。 町の起立の年代は不明ですが、田町大通りに町屋が起立した後に家が建ちはじめ、 通新町の横
町にあたるので横新町と呼ばれるようになりました。 町屋となった後もしばらく代官支配が続きましたが、 寛文二年 (1662) に町奉行支配とな
りました。

通新町(とおりしんまち)
 むかしは荏原郡上高輪村と呼ばれていました。 江戸時代のはじめに町家が建ちはじめ、 町となった後も代官支配が続きましたが、寛文二年(1662)、町奉行支配となりました。 三田通りが町の南北を貫き、 田町(たまち)開設の後に新たに開けた町であることから、通新町と称されるようになったと伝えられています。明治五年(1872)、 久留島安房上屋敷(くるしまあわのかみやしき)および付近の土地を合併して、通新町となりました。

田町(たまち)
 むかしは荏原都上高輪村と呼ばれていました。 芝浦の渚に近い田畑が町家と変わっていったので芝田町(しばたまち)と称されるようになりました。 寛文二年 (1662)、町奉行支配となって一丁目から九丁目に分けられ、安永五年(1776) には海を埋め立てて町域を拡げました。 明治五年(1872)、 武家屋敷だったところや寺社地を合併しました。 江戸の頃は、 東海道を行き来する人々でにぎわい、諸大名の浜屋敷が多くあったところです。




 江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられて、布告法令などが掲示されたところから、札の辻と呼ぶようになりました。元和二年(1616)には、芝口門をここに建てて、江戸正面入口としての形式を整えました。この門は「日暮御門(ひぐらしのごもん)」といわれましたが、これはこの東がすぐ江戸湾に接し、海を隔てて房総の山々を望む、一日眺めてもあきない景色であったためといわれます。
 その後高札場は、天和三年(1683)に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移されました。また、宝永七年(1710)に、芝口門は新橋北側に建替えられ、ここは「元札の辻」と呼ぶようになりましたが、明治維新後はまた「元」を略して「札の辻」と呼んでいます。


近くにあった地図。








バンダイナムコ未来研究所



すごい巨大なビルなんだねぇ。
ゲーム好きにはたまらない会社。







都営三田線三田駅







田町駅



ゴールのJR田町駅


今回も坂が多かった。
ビルが無くて、海岸が近かった昔は眺めが良かっただろうなあ。
お寺も多いね。
そんじょそこらの寺町なんかとは比べ物にならないくらい多いと思う。
調べてみる価値ありそうだ。