2020/09/11 芝公園散歩 06 芝公園

公園の中に史跡がいっぱいあったので1ページにした。




紅葉館と能楽堂

 後方に聳え立つ東京タワー。かつてその場所には紅葉館と能楽堂がありました。紅葉館は明治十四年(1881) に建設され、以降当時の政財界の要人や文化人が会合する高級料亭として賑わいました。
 一方、能楽を西欧のオペラに比すべき日本の芸術として位置付けようと振興した岩倉具視ほか有志の華族で設立した能楽社により、同じ明治十四年(1881)紅葉館の隣に能楽堂が建てられました。
 江戸時代までは屋外に置かれてきたという能舞台ですが、これ以降は室内に置かれたことからこの能楽堂は国内初の室内能楽堂といわれています。
 その後、能楽堂は明治三十六年(1903)靖国神社に奉納、移築され、現在でもこの能楽堂で能や芸能が行われています。






◆芝丸山古墳




 全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40m、くびれ部幅約22mほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高約16mの台地端に位置し、前方部を南南西に向けている。
 江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治31年に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪を伴うことは知られている。
 前方部が狭く低い形態や、占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ、付近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵の族長の墓だったと考えられる。






◆円山随身稲荷大明神



 円山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。
 随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移建当時桑名よりお迎えした御本尊を守護する為に江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮守まします大明神であります。







大野伴睦句碑



鐘がなる春のあけぼのゝ増上寺 


大野伴睦を調べた。
『大野 伴睦(おおの ばんぼく、本名:大野 伴睦(おおの ともちか)、1890年(明治23年)9月20日 - 1964年(昭和39年)5月29日)は、日本の政治家。
東京市会議員を経て衆議院議員となり、衆議院議長国務大臣北海道開発庁長官、日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。没後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。
典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。また、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の名言を残した。
タカ派政策集団青嵐会を結成し、後に農林水産大臣科学技術庁長官などを務めた中川一郎の政界での師匠として知られる。 』
大野伴睦 - Wikipedia






伊能忠敬測地遺功表



忠敬先生は1745年(延享2年)上総國に生れて下総國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後50歳のとき江戸に出て高橋至時のもとで天文暦教の学を究めた。先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年蝦夷奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって続けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。
その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである。
東京地学協會はその航跡を顕彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。扔つて今回各方面の協賛を得、この碑を再建した次第である。






◆平和の灯



平和の灯
 この平和の灯は、港区が昭和60年8月15日「港区平和都市宣言」を行ってから、20周年を記念して設置したものです。 ここでともっている「火」は、広島市の「平和の灯(ともしび)」、福岡県星野村の「平和の火」、長崎市の「ナガサキ誓いの火」 を合わせました。
 この灯(ともしび)を通じて、戦争の惨禍と平和の尊さを後世に伝えてまいります。






◆松籟俗塵(しょうらいぞくじん)を払う

 芝公園のうち、増上寺三解脱門 (三門) 前に位置するあたりは古くから大松原と呼ばれて北中南の三区よりなり老松枝を交え松顔俗塵を払い、 自然美豊かな区域でした。
 それは寛永17年 (1640) 增上寺二十世大僧正南誉雪念上人のとき、 幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも、青山家藩士の植
樹で百本松原と称したことによるとも伝えられています。
 明治時代に入り 「東京通志」 の中に三門前の通り(現・日比谷通り)を「山門前南北二通ズル大路ヲ松原通、其東フ松原裏通ト称ス。』と記述されており、明治12年頃には山門前通りの南方古川(赤羽川) に架橋するため旧学寮瑞華院、 隆崇院の間を切り開いて道路をつけ、 橋を芝園橋と呼びました。 山門前通りが三田方面との連絡ができるようになったのはこの時からでした。
 松はその後の災変によって焼失、 あるいは枯死し主たる景観はクスノキに変わりました。






◆ペルリ提督の像

特に説明は無かった。






◆万延元年 遣米使節記念碑

 西曆1860年2月9日(万延元年正月18日)新見豐前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーパタンに塔乗、初の使飾として米国に赴いた。副使村垣淡路守範正の詠にいう、
   竹芝の浦波遠くこぎ出でて
     世に珍しき舟出なりけり
 遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。






地蔵堂

寂しい場所にいらっしゃった。







続く。